綺麗なだけでは嫌なのです
最近、日記をつけ始めた。
今まで日記らしい日記をつけたことがない。夏休みの宿題も適当にまとめて書くタイプだったし、mixiの日記も頻繁に書いてはいたが、その日あったことを書き留めていたわけではない。
日記は、なんてことない日々の記録であり、思うことでり、誰にも見せないセキララな心のうちである。もしかしたら読み返すことはないかもしれないけれど、自分の言葉を自分で抱きしめて、いたわるような、私にはそんな行為に思える。そのせいでnoteの更新頻度が減ってしまったワケだけれども。
先日、Creepy Nuts(クリーピーナッツ)のという二人組のHIP HOPユニットのライブに行った。ライブのMC中にラッパーのR-指定さんがこう言っていた。「書くことがセラピー」だと。
R-指定さんは折り紙が折れないとか、洗濯物が畳めないとか、仕事内容が覚えらずクビになるとか。なんとも生きずらそうである。
「イライラすることが多く、だからこそ言葉にしてフロウをつけて歌うのだ」とも言っていた。
私には何かが欠けている人間がとても魅力的に見える。欠けているとは語弊があるかもしれないが、正があれば負があり、光があれば闇があり、陽があれば陰がある。それによってバランスがとれているのだろう。
綺麗ごとだけのものに違和感を覚えるのは、汚いものを徹底的に排除しているからかもしれない。みんなどこかしら欠けているし、完璧な人間なんて、きっといない。
なんて、日記ビギナーのくせに偉そうなことを書いてしまった……。これは “ 何者でもない私の闇 ”、ということで何卒大目に。