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言語の壁の向こうにいる人間は私と意外と似てる

言葉の壁

中国語を勉強し始める直前、当時私の中国語は本当にゼロレベルだったのですが、その時に中国語ラジオを聞いて「全然わからない、、、宇宙語だ、、、」と絶望した気持ちを意識的に覚えておきました。

当時から考えると今ではだいぶ中国語が理解できるようになりました(涙)(すごいぞ、自分!)(自己満)

英語が分からないだけで商談で少し引け目に感じたり、中国語が分からないだけで大きな声で話している中国人に嫌悪の気持ちを抱いたり。

言葉の壁って、万里の長城のように厚くて高くて、向こう側の景色が見えないし音も聞こえない。そんな状況で人間というのは推論をめぐらしていろいろ考えます。考えて推論します。

分からないだけなのに推論が入る

推論が良くないのは、時々、感情が入ってしまうこと、先入観・偏見が入ってしまうことです。分からない、ということで保留しておくことがなかなか難しい。

英語が分からない引け目、外国人に対する差別につながるような感覚。これらの根本にある原因は、言語の壁によって向こう側が見えないことです。壁が厚くて高い、壁の向こう側を知るにはエネルギーが必要です。ほとんどの人はそのエネルギーを使う動機がありませんから、向こう側の実態を知るチャンスがありません。

そして推論が始まります。

「不要哭!」の衝撃

印象的な経験をしたことがあります。

日本の地下鉄に乗っているときに、中国人のお母さんと就学前だろうと思われる男の子二人の親子が乗車してきました。当時私は中国語を学び始めて半年程度。彼らは中国語でしゃべっていましたから、失礼ながら耳を傾けていました。

すると兄弟が喧嘩をしだして弟が泣き出しました。おなかに力を入れてかなりしっかり泣き始めたのですが、間髪入れずにお母さんがこう言いました。

「不要哭!不要打扰啊!(泣くな!迷惑をかけるな!)」

私は二つの点で衝撃を受けました。

一つは自分がお母さんの中国語を理解できたこと。(たぶん語学を楽しく続けていくヒントがここにはあると思います。)

もう一つは、お母さんが公共の場で迷惑をかけないように子供をちゃんと注意したことです。日本人のお母さんでもこれができない人は多いです。そして、泣き止んだ子供を笑顔で優しく褒めていました。当たり前ですが、母子の愛情というのは普遍的な感情のようです。

推論にあてもない方向に導かれる前に

私は今のところ日本語と英語と中国語が何とか理解できますが、語学を通して思うのは、人間はどこも似ている、ということです。文化や習慣の違いの向こう側にいる人間はとても似ています。

結婚して家族を形成して子供を産んで育てて。
理想的な仕事を得るために学業やスキルを習得して。
親族や家族を大事にして助け合って。
うれしい時には笑って悲しい時には泣いて。
自己利益のために他者に嘘をついたり騙したりして。
そして最後には死んで、家族によって見送られる。

壁の向こう側にいるのも同じ人間。文化や習慣や環境や経済状態が違うというだけで、身体や感情の成り立ちは同じです。つまり、想像力を発揮すればかなり理解できる範囲です。

もし言語の壁がなくなったら、この様な理解が容易になります。世界の地平がフラットになります。壁がなくなりますから。

語学の真の価値というのはここにあると思っています。

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