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翻訳機に替えられないもの

天津と北京

中国の天津と北京に一週間ほど行きました。中国大陸はまだ2回目。1回目は香港から陸路で入国した深圳でした。もう2年前のことです。私がちょうど中国語を勉強し始めたときでした。当時は香港でも深圳でも基本的には英語でコミュニケーションをはかりました。日本語よりかは通じる人数が多かったですが、英語をしゃべる人もごく少数という印象。そのせいか、中国の大陸の国境で越境検査する人は冷たい印象が残りました。中国人自体にもそんな冷たい印象が頭に片隅に残っていたように思います。うまくコミュニケーションできず、人情味を感じられる機会が無かったのですね。(深圳では無印良品が展開するホテルMUJI HOTELに泊まったのですが、無印良品の人情味を排除したようなブランドイメージも相まってかも。。。)

一方で今回の天津、北京はとても中国人の人情味を感じられる旅程となりました。理由を考えるに2つあるかと。1つは天津や北京が歴史や文化の色濃い土地であるということ。深圳はこの数十年で経済特区として開発された中国の中でも特に新しい都市の一つ。建物はすべて新しいし住んでいる人も他地域からの移民がほとんど。とにかく漂白された、中華系しかいないシンガポールみたいな都市でした。それに比べて天津や北京は分かりやすく何千年の歴史の脈々たるものをビシビシに感じました。文化というのが人間の営みの積み重ねならば、それに満ちた土地でした。もう1つは私のこの2年の中国語の勉強で中国語力が上がり、また中国人友達とかかわる中で私の「中国リテラシー」が向上したことです。

翻訳機が当たり前の未来

翻訳機の到来が語学を不要にするのか、というテーマでnoteしたことがあります。今も意見は変わっていません。

「私が同じ中国に相対して、心に立ち上がる印象が2年程度でこれほどで変わるのか!」という驚き。正直に簡潔に言って、想像以上に中国に違和感がなかったし、私の許容テリトリーに中華圏がすっぽり入った感じがあります。受け入れられた。今の私は、日本と中国の間に問題が生じたとして、双方を考えてよりバランスの取れた考察をする自信があります。

この前のnoteに書いたように、仕事や旅行など、定型文が活躍する場面においてはAIや翻訳機が大活躍するでしょう。しかし、だからと言って語学の意味がなくなるわけではない。言語なんて、文化の一番表層の、取るに足らない、機械に簡単に置換されうる存在だってこと。大事なのはその下にある文化それ自体に対するリスペクトをいかに持てるのか、です。

僕が誇らしいのは中華に対するリスペクトを抱けていること。第三者ではあるけど、中華の中に日本のルーツを見るたびに、文化の波がトクトクと湧き出る泉を見るような気がして厳かなムードになるのです。

同じ言語を共有するということ

旅行者を受け入れる国の人にとって、外国人が自分の分からない言葉をしゃべっている場合、心理的な壁が当然ある。翻訳機を使えばその壁はある程度なくすことができるだろう。ましてや、受け入れる側が分かる言語をしゃべってくれた時には一気に心の扉が開く。これは想像に難くありません。

日本人の多くは日本語しかしゃべれない。だから、日本語をしゃべれる外国人に対しては心を一気に開くことができる。「この人は日本に興味があって、時間をかけて日本語を勉強したのだろう」と思うからです。私も中国で同じような経験をしました。英語をしゃべっていて、伝わらないときに中国語に替える。すると一気に相手の心が開くのが分かるのです。日本人もそうですが、中国人というのは中国語が通じるとわかると一気に距離を詰めてきます(笑)。安心するのだろう。中国人にとって、日本人が中国語を学ぶことが信じられないようです。「なんで中国語なんか学ぶんだよ?」と。とにかく、中国語を話すと一気に「人情味」が押し寄せてくる。これは2年前の深圳では感じられなかったことです。

「外国語をしゃべれるようになる」というのは大変なエネルギーが必要です。ということは、外国語をしゃべるということは、そのエネルギーを詰め込んだ証明になる。そして、尊敬され賞賛され、現地の人の心の中に飛び込むことができる。翻訳機があるからと、何のエネルギーもその文化への尊重に費やさないことが分かれば、当然相手側にも伝わってしまいします。エネルギーとその証明。それにおいて、翻訳機では満たすことができない信頼が語学にはあるのです。


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