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まだ、鳴らないで。|2000字のドラマ

未明から降り続く冷たい雨は、昼過ぎにみぞれ交じりになった。
茜はひとり物憂げに窓の外を眺めていたが、やがて短くため息をつき、思い出したように部屋の暖房を入れた。
椅子に腰かけ、ケースからおもむろにチェロを取り出す。
弓を張り、エンドピンを伸ばして楽器を構える。
最も太いC(ツェー)の弦に弓をかけ、力を込めると、ずん、と洋間の冷気が震えた。
見計らったように部屋の扉が開く。兄の英介だ。「寒いな」と一言つぶやくと、てきぱきとピアノの準備を始める。壁際のピアノ周りはきれいに整頓されている。
「和彦、いま家出たって。少し遅れるってさ」
後ろを向いたままそう言った英介は、ピアノに向かうとすぐさま軽やかな音階を鳴らし始める。
チェロとピアノ。部屋に響く2つの音をどこか遠くのほうに聞きながら、茜はそっと目を閉じる。





あの日。青空が作り物のように高く澄み渡った日曜日。
自室でうたた寝をしていた茜は、ふいに軽快な音楽に耳をくすぐられ、ゆっくりと身を起こした。
開け放った窓から爽やかな秋風が吹き込む。風に乗る旋律。英介のピアノ――真面目な兄らしい、憎らしいほど研ぎ澄まされたピアノに、しかしこの日、聞き慣れないもう一つの音色が重なっていることに茜は気が付いた。
(この音……?)
重苦しい眠気は霧の晴れるように消え去り、代わりに興味がむくむくわいてくる。2階の自室を出て薄暗い階段を降りる。古い家屋は一歩降りるごとにぎしりと鈍く鳴いた。音楽用にあつらえられた洋間は長い廊下の先。そろそろと忍び足で進む。もう先ほどから、音楽ははっきり耳に届いている。
扉の隙間からそっと中を窺った瞬間、嵐のような激しいパッセージが始まり、思わず身をすくませた。ピアノを演奏する英介の真剣な横顔が音楽に合わせて揺れる。いつもの光景だった。いつもと違うのは、
(やっぱり、バイオリン……!)
兄の背後で、小ぶりな楽器を顎に挟み、右手に持った長い弓をしならせるように上下させる男の人。初めて見る顔だった。兄の友人だろうか。弦楽器を間近に聞くのは初めてだった。硬く揺るぎない、それでいて繊細で儚げな音色が、兄のピアノと一体感をなす。息をつくのも忘れて聞き入った。自由に、生き生きと演奏を続ける彼の姿に心を奪われた。
だから――油断していた。曲に没頭した茜がわずかに意識をそらしたとき、デュエットは唐突に中断され、扉が大きく開かれた。逃げる間もなかった。
「こんにちは」
自分に向けられた和彦の笑顔を、茜は今も忘れていない。
あれは疑いなく、世界の入り口だったのだ。


和彦は兄である英介の中学の同級生だった。
以来月に数度、家を訪れては1時間ほど楽器を合わせていった。冷たい印象を与える英介のピアノに、和彦のバイオリンが重なると、あたりはとたんに華やいだ。はじめこそ気恥ずかしくて隠れるように自室にこもっていた茜だが、3つ年下の「妹」に気さくに声をかけてくれる和彦と、その明るい弦の音色に惹かれない理由がなかった。
洋間の片隅にちょこんと座り、2人のやり取りを眺める。演奏を聞く。茜の大切な時間になった。
あまりに楽しくて――楽しいから、あこがれたのだ。
「チェロがいたら、ピアノトリオができるのに」
そう言ったのは和彦だったか、それとも兄だったか。肝心なところを茜は覚えていない。
出会いとは本当に分からないものだ。兄を追いかけるように始めたピアノは「つまらないから」と、ほんの2年でやめてしまったというのに。チェロを始めてから楽器に触らない日は数えるほどしかない。三度の飯よりピアノが好きという兄を、とてもバカにできない。
上達する茜を、和彦も英介もことのほか褒めてくれた。
3人で初めてピアノトリオを奏でたとき、その美しく厚みのある響きに、和彦だけでなく、ふだん厳しい兄までが興奮を隠さなかった。
うれしくて泣きそうだった。





「合わせてみるか」
英介が調音のためのA(アー)の鍵盤をぽーんと叩く。
茜は「うん」とうなずき、Aの弦に弓をかける。
やわらかな2つのAが、より合わさって1本の糸となり、どこまでも延びていく。

和彦も兄も、この春、高校を卒業して町を出る。それぞれの道を歩み出す。
第一志望に通った2人を心から祝福できたはずだったのに、茜は日に日に寂しさを募らせていた。ひとりぼっちになってしまう。
「バカじゃないのか」
兄は乱暴にそう言い放つだろう。
「僕らは音楽でつながってるから」
和彦なら、そんな気取った麗句をこともなげに口にするかもしれない。
そんなの分かってる。高校に入れば、また新しい出会いが待っている。かつて和彦と出会ったように、チェロに出会ったように。予想もしなかった巡り合わせに、感謝する日だって来るだろう。
それでも、トリオが出来るのは今日で最後。
和彦と、気兼ねなく会えるのも。
2人の旅立ちは迫っている。

「和彦くん、まだかな」
窓の外に目をやりながら、ぽつりとつぶやいた。
英介がふと立ち上がり窓の前に立つ。
「雨、やまないみたいだな」
冷たい春の雨が、変わらず窓を叩いている。

呼び鈴は、まだ鳴らない。