思い出は往々にして美化される

今日病院に向かう途中、公園でテニスをやっている親子がいた。そういえば昔、子供の頃に父とよくバドミントンをしていたな、なんて思い出した。

父との思い出は不快なものが多いが、たまにそこそこ楽しかった思い出もある。バドミントンなどいい例で、私はそのおかげでバドミントンがうまくなった。もともと背が高く手足が長いこともあり、学校の授業でやったときなどそれなりに勝つことができた。運動音痴で体育の成績がいつも2だった私でも。

思い出は往々にして美化される。あの頃はよかったなんて思うのはほとんどが幻想だ。その時はその時で必死で苦しい思いをしていて、でもそのほとんどを時の流れとともに忘れてしまう。それでも思い出が美しいのは、時に救いにもなり、かえって苦しみにもなる。美しい思い出がときどき私を苦しめる。それは父のこと以外でも。

戻れない過去に対してあーだこーだと評価を下して一喜一憂したところで意味がないのかもしれない。だけどどうしてか人はそんな無駄なことをしてしまう。人間は無駄の多い生き物だと思う。少なくとも私はそう思う。

しかしなぜそんな無駄な反芻をわたしは止められずに繰り返しては傷つくのだろう。私の過去はかさぶただらけでちょっとひっかけばすぐ血が出る。地雷原だらけともいえる。何でそこをわざわざ振り返るのか。前だけ見て歩けばいいのに。

美しい思い出は残酷だ。その時が実際どうであったにせよ、なにをしたって戻ることができないからだ。手に入らないものほど余計美しく見える。そんな戻れない時間の美しさに、どうしても私は惹かれてしまう。幻想だと分かっていても。

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