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悪いのは全部 君だと思ってた

「干渉しない優しさ」を父が教えてくれた。
本人が話したがらない以上に踏み込まないことが信頼なのだと。

進路に迷った時も、大学を中退する時も、会社を辞める時も、必要以上に踏み込まないでいてくれた。

どうしても聞きたいことがあると、「サウナ行こうぜ」「あんみつ食いに行こ」そう言って話しやすい空気を作ってくれる。

親子だからそんな無条件に信頼してくれるのか疑問で質問してみると、
「他はわかんねーけど、お前は自分で考えられるじゃん」と笑ってる。

主体性が大事だと思っていた。自分で考えて、わからなければ調べて、自分で決める。
そうしないと上手くいかなかった時に責任を擦り付けてしまうから。時間、才能、「あの人が言ったから」、言い訳はいくらでもできてしまう。

思考を放棄してしまったら人間である意味がないだろう?

主体性のない人が苦手だ。自分で考えて決めないくせに、「された」「やってあげた」「自分ばっかり」とか言う。挙げ句には「人の気持ちがわからないよね」なんて言ってくる。主語を大きくするなよ。「わたしの都合と気分がわからないよね」って言ってくれた方が100倍マシだ。

どうしたの?を待つなよ。

最近わかってきたのは、僕が「自分で決めるのが好きな人」なだけであって、「誰かに決めてもらうのが好きな人」もいるということ。
選ぶことよりも選ばれることに喜びを感じる人がいる。

例えば恋愛ごと。
どこに遊びに行くか、何を食べるか、全部を決めてもらうことで「自分は大事にされている」と感じる人がいる。どれだけ連絡をくれるか、自分にどれだけ金をかけてくれたかで愛情を量る人がいる。
「そんなことしてたら自分の評価が他人に依存して苦しいじゃん意味わかんねぇ~」と思ってしまうけど、本人たちはそれで幸せらしい。

職場の人間関係。
「二次会カラオケらしいんですけど、行ったら終電乗れないですよね」
えっ、なにその相談。帰りたきゃ帰ればいいし、まだ遊びたいなら行けばいいだけじゃねと思ってしまうけど、そうじゃないみたい。「帰っても大丈夫だよ」って言ってほしいんだって。誰もが「お疲れ様でしたー!」と元気よく言って振り返らず駅に向かえるわけじゃないらしい。

「誰かに決めてもらうのが好きな人」は、めちゃくちゃ大事に大事に丁寧に育てられたのかもしれない。もしかしたら、自分で決めることを反対する人がいて傷ついた経験があるのかもしれない。

優しさにはいくつかの形があるって、なんで気づけなかった。
こんな簡単なことをなんでもっと真剣に考えられなかったんだろう。

どこにも正解なんて存在しない。わかってる。
でも誰にとっても、その人にとっての一番優しい形を、求めたいと思ってしまうのは傲慢なエゴイズムなんだろうか。

今日も今日とて、寝ても覚めても、考えても考えてもわからない。

いつかちゃんとわかる日を、パンを焼きながら待ち焦がれている。


世界の終わり / THEE MICHELLE GUN ELEPHANT


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