見出し画像

引っ越ししなかった経験

最近、引っ越しをしようとしていたが、止めた。価格交渉もし、契約直前まで行ったもののストップし、昨日不動産屋に詫びを入れた。意識してなかったのだけれど、管理会社が大手だったので、「気をつけてくださいね」と変な心配ももらった。簡単に言えば、いま住んでいるところを継続することになったのだけれど、理由はいろいろあり。公団ゆえの住宅費の安さ、通常の不動産賃貸だと発生する諸々の諸手数料が必要ないこと(礼金、更新費、事務手数料、絶対加入の保険や謎の駆けつけサービス等々。このわけのわからないものに費用を使うのが嫌なのだ)、また十分な広さと利便性があることなどから、結局そのまま住むことにした。もし引っ越したとしたら、支払うことになる金額を計算し、高い家電を買えばいいじゃないかと(自分の中で)なったので、家電屋周りもさっそくした。家電を変えるのがすごく久しぶりなので、その機能の変わりようと、またメーカーの変わらなさなどに驚きもした。今回、同棲することになったので、そのなかで取りやめたのだけれど、勿論自分なりの対話というか話し合いをしたものの、じっさいのところどこまで納得したのか、妥協したのか、諦めたのか、失望したのか、はよくわからない。言葉に発していないものもあるだろう。それはなるべく補填はしたいと思っているし、また少なくとも言葉で出ている要望(スペースの十分な確保、家電の選定、お湯周りの調達など)は叶えようと思っている。しかし、ともに暮らすというのはまだ未知数なことが多くて、よくわからない。今回の選択、少なくとも、探して関係者合意を得たにもかかわらず、自分の考えで取りやめにしたので、手続き上は適切ではなかったと思うが、個人としては安心感があった。そういう意味では、最初からここに暮らすことを自覚すべきだったのかもしれない。少なくとも、当初から考えていたことだったのだから。逆に言えば、他人への配慮(中途半端な)が、自身の選択を混乱させ、結局他人も混乱させるということだったのだから、要は自分が何を欲するのか、どれが許容できないのか、という線引をはっきりすべきだったのだろう。しかし現実は、絶対的な基準はなく(そして厳格に立てるべきでもなく)、相対的な比較衡量のなかで、おぼろげに見えてくるもので、だからそのとき、しっかり自己のなかで納得できるかを問うべきだった、そういう結論になるんだろうな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?