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200508_過去に置き去りにした好奇心

最近、よく、自分が幼かった頃のことを考える。やってみたかったことを、全部やれていただろうか。

私は多分、特に海外で暮らすようになるまでは、本当に多くの「声」に影響を受けて生きていたんだと思う。

当時、「演技」というものに、何故か興味があった。英語もすごく好きだった中学一年生の私は、英語演劇部に入ろうとした。でも、誰かにそれを話してみたときに、「あの部活は、オタク系、暗い系のノリだから、愛梨っぽくないよ。」と言われ、「あ、そうなんだ…」と思い、友達に誘われ、流され、そこまで入りたかったわけでもなかったゴリゴリのバスケ部に入り(江東区で上位3位とかには必ず入る感じの強いチームだった)、ほぼベンチだったにも関わらず、そしてコーチのパワハラを受けながらも、なぜか引退まで、やり切った。しかも、引退試合のときもなぜか怪我をしていて、ベンチなのに怪我という、情けなすぎる感じで、涙も出なかったのを覚えている。みんなでおいおい泣いている輪に入れず、少し離れた場所で、「なんだか、泣けないねw」と、話をした子とは、いまだに、数年に一度やりとりをする。

話は戻る。演劇をやってみたかった気持ちは、なくなるわけではなかったものの、一旦、過去に、置き去りにされてしまった。

大人になった今の自分は、好奇心を無視しない力を身につけたから、ある程度は、周りになんと言われようと、勝手にやることができるようになった。強くなってしまったものだ。

だけど、周りの子ども達と関わっていると、本来、人間の「好奇心」というものは、とても繊細なんだと思い知らされる。ふわっと生まれて、なにかの支え?や、助長?がないと、ふわっと消えてしまう。

バスケ部に入って良かったと思うし、あの2年半の経験は今の自分を形作る大事な経験になっていると思うから、全く後悔はないのだけど、演劇をやってみたいという好奇心を置き去りにしてしまったことに関しては、なんだか胸がの奥が、ぎゅっと切なくなる。まだ弱かった過去の自分に対して「もっと強くなれ」と言いたいわけでもなく、当時周りにいた人を責めたいわけでもなく、ただただ、切ない気持ちになる。

私は、その行き場のない切ない経験を、今の子どもたちに、還元しようとしているような気がする。子どもに限らずかもしれないけれど。

好奇心を、見逃さない。生まれた火を、消さない。たまに、少し助長する。そんな風に、周りの子どもの繊細な好奇心を、大切に扱っていきたいなあと、思う。

やっぱり、好奇心って、生命力だと思う。

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どうせ書いている日記。独り言を、つらつらと。閉じておく理由もみつからないので、公開してみることに。ちょっとやってみて、意味がありそうであれ…

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