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12年。

注意:東日本大震災に触れております。

いま、考えること(短い前置き)

こんにちは。三浦です。

あの日から12年がたち、宮古市田老の5歳の保育園児だった私は、盛岡の17歳の高校生になりました。

高校進学をきっかけに生まれ故郷田老を離れ、まもなく3年になりますが、今でも時々帰ったり、話を聞いたりすることがあります。

帰郷するたびに、まちの姿がどんどん変わっていき、嬉しい反面、「これで本当に復興は進んでいるのか?」と疑問を感じることもあります。

今日は、そんな私が、12年という年月を経た今考えること、今でしか伝えられないことを、一つ一つ書かせていただきます。

私と震災

当時、私は5歳で、地元の保育所に通っていました。

震災の日の記憶だけは、今でもはっきりと残っています。

走って中学校へ逃げたこと。校庭で不安な時間を過ごしたこと。「津波だ!」の一声で一斉に山へ駆け出したこと。中学生に手を取られて、山を必死でよじ登り、山の上へと避難したこと。ろうそく1本のお寺の一室で、余震におびえながら一夜を明かしたこと。

私の自宅は全壊し、親戚の一人も、津波で犠牲になりました。

当時の私は、きっと何が起こっていたのか分からなかったのだと思います。しかし、記憶は脳裏に焼き付いているので、とても衝撃的な出来事だったことは分かっていたのでしょう。

その後、2016年に新しい家が完成するまで、親戚の家、仮設住宅を転々としました。

震災の記憶は、自分が年を重ねるにつれて、どんどん思い出すのが辛いものになっていきました。

自分は震災を語る資格があるのか?

私の母校、田老第一中学校では、「田老を語り伝える会」という、学校を訪問した中学生や、各市町村のトップが集まる会議、文化祭などで、当時の震災の様子や、復興の現状について学んだこと、今自分たちが感じていることを発表する場が設けられていました。自分の代はコロナウイルスの影響でできなかったのですが、東京の中学校を訪問し、発表を行うことも、例年あったそうです。

中学校での復興教育は、生々しく、その分学びの多いものでもありました。ご指導いただいた先生方には、本当に感謝しています。

しかし私は、高校進学と同時に、故郷を離れるという決断をしました。

地域活性化を自分の探究テーマの一つにした要因でもある、故郷からの人口減少、高齢化。その要因の一つに、自らがなりました。

自分がたまに帰っても、見えてくるのは、道路や堤防ばかりが整備された町。帰っても、居る期間は短く、地域の方々ともあまり交流できない。

一緒に来てくれた父や母の支えを受けて、受験戦争の荒波にもまれつつも、盛岡で頑張って課外活動・探究活動を行っているのに、それをするきっかけになった、大好きなふるさと田老の現状を、自分は何も知らないし、何もできていない。

葛藤を抱えながら、こんな自分でも、震災や復興のことを話していいのか? と自問自答を続ける。自分より、心に抱えたものが大きい人もいるはずなのに、こんな自分が……、と。

その答えは、まだ出ていません。

でも、僕が感じることをありのままに発信することはできます。

そう思って、今回、筆を執りました。

思えば、今でもこうして田老に帰ったり、田老のことを想い続けたりできるのは、帰った時にいつものように接してくれる、家族・同級生・後輩の存在があってのことです。本当にありがとう。

『すずめの戸締まり』という作品を見ました。

先月、新海誠監督の最新作、『すずめの戸締まり』を拝見してきました。

観た直後は、あまりにも衝撃が大きく、Twitterでも感想が書けないほどでした。でも、今なら少し触れられます(ネタバレはしませんのでご安心ください)。

私は、この作品を、新海監督からの問題提起、そして、それに対する新海監督の一つの答えである、と、私は考えます。

そして、それを行ってくれた監督、およびスタッフの皆さんに、心から敬意を表します。

私は、この作品の一部のシーンで、あまりの描写の生々しさに、胸が苦しくなることもありました。胸を張って「皆さんぜひ見てください!」と言えないのもこれが理由です。

しかし、我々は、「記憶の風化」という、大きな課題に向き合っていかなければなりません。

今回でそれを心から感じたし、この記事を書くきっかけの一つとなりました。

この記事を読んだ方は、ぜひ、被災地を、一度でいいから訪れてほしい。

それが、聖地巡礼であっても、ほかの目的であっても構いません。三陸の各地にある資料館などに残っているものを、ぜひ一度見てほしいです。

参考までに、田老には、「たろう観光ホテル」という、震災遺構があります。「学ぶ防災ガイド」のガイドさんが、案内してくださいます。ぜひ、当たり前の大切さを、防災を学ぶことを通じて、感じてほしいと思います。

復興・防災教育の現状

先日、大槌高校の探究発表会を見学に行ってまいりました。

地域を世界へつながる媒介とし、地域と本気で向き合うことで、最先端の探究を行っていました。

大槌も、震災で大きな被害を受けた町です。

その大槌という地で探究学習を行うことは、この上なく有意義なことだと思います。

発表の中では、1,2年生ともに、震災に関連するものがいくつもありました。

地域と向き合うということは、震災と向き合うということ。それを心の底から感じました。

しかし、その命題は、どこでも通じるわけではありません。

全国では、震災・日常の大切さについて学ぶ機会が少ない学校もあるのではないかと思います。

その人たちに向けて発信すること。一度でいいから震災について学んでもらうこと。それこそが、田老を語り伝える会などの役割であり、また、私のように、被災者で、全国に目を向けた活動をしている人たちがなすべきことなのではないか、と感じています。

防災については、専門家がいますし、その人の講演などを聴けば、勉強になります。

ですが、震災が住民にとってどのようなものであるのか、何気ない日々の温かさ、当たり前の大切さなどの話は、被災者がいちばん理解しているのではないかと思います。

しかし私は、一つの生々しい現状を、目の当たりにすることになります。

私の高校では、年に1度、防災に関する講演会がありますが、3月11日周辺の復興教育は、約30分。副読本を読み、ワークシートに記入するだけ。

形骸化も甚だしいと感じました。

なんか、もう、残念だなあと。

同じ岩手県なのに、こうも違うのか、と。

せっかく県内各地から人が集まってくる高校なのだから、もっとできることがあるだろう、とも思いました。

3章で、自分は震災を語る資格があるのか? について記し、まだ答えは出ていない、とも書きました。

しかし、今記事を書いているように、資格があるかどうかについては分からないけど、被災者として、伝えなければならないことは、少なくともあるのではないか、と感じています。

そして、その話を受け止めてくれる人が、一人でも多くできるような社会の仕組みづくりをしていかなければならない。そう思います。

これだけは、伝えたい。

最後になります。

今皆さんが生きている日常、今皆さんの身近にいる大切な人は、本当に貴重です。いつそれが崩れてもおかしくありません。

だから私は、せめて1年に一度は、その大切な人を想う日をつくるべきだ。そう感じています。

岩手県では、3月11日を、「大切な人を想う日」と定めています。それもあり、僕は今日を、とても重要な日だと認識しています。

ただし、皆さんが今日、そうである必要はありません。

誕生日でもいいです。記念日でもいいです。せめて年に一度は、「大切な人を想う日」をつくりませんか。

今日皆さんにしてほしいことは、一つです。少しでもいいので、東北の被災地に思いをはせていただきたいです。

そして、もしお時間のある方は、午後2時46分、黙とうを行っていただければ、幸いです。

今年は、たまたま今日が土曜日でした。私はその時間、ふるさと田老の堤防の上で、黙とうを捧げたいと思います。

この記事を書いたことが正しい選択だったのかは、正直、分かりません。

しかし、一人でも多くの人が、僕の気持ちに共感してくださるとうれしいです。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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