詩という言語構造体へ

いつしか「わかる」ということを買い被ってしまっていないだろうか。
「わからない」ということを見下していると言うよりは、むしろ畏れているようだ。
畏れているからこそ「わかりそう」で「わからない」ものは認めたくない。が、まったく「わからない」ものは追及せざるを得なかった。

詩は、わからない文学である。
物語のように筋道が必ずしも成り立っているものではない。作者の心で成り立つ言語の構造体であり、他人の気持ちを推し量ることが簡易に出来るものではないように「わかる」ことが出来ない文学なのだ。
それはもう正解のない謎解きだ。
つまりは「わからない」を素直に受け止め、自分なりの解釈を仮説として見出し、「わからない」を構成する言葉を味わう。
「わかる」ような詩は、つまらないと言うことだ。
「わかる」と「わからない」の境界線をフラフラしているような詩こそが本当に良い詩であろう。それは一見「わかる」ように思わせるし、考えると「わからない」かもしれないと惑わせてくる。
そういうものを義務教育の教科書に安易に載せてしまう。理解させることが困難なのにだ。むしろ、前段階として文章の読み書きの土台をしっかり築かねばならない。詩はそれからだ。

わたしたちの詩の起源は呪文にある。日本人の詩情は、和歌の成り立ちから来ているのだ。
和歌は、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した素戔嗚尊(スサノオノミコト)が詠んだ神楽歌(八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を)から始まり、土地や季節を詠めば、自然を鎮静させて豊穣を願うための祈祷の呪文となり、時の帝が恋を詠めば子孫繁栄の祈祷の呪文となったという言霊信仰の成り立ちである。北欧神話でも神の王オーディンは、知恵の神として魔術師と詩人を保護したと言われており、ここでも詩と呪文は繋がる。
そして万葉集では、柿本人麻呂や山上憶良が「大和は、言霊の幸わう国」と詠んでいる。日本人は言葉と共に歩んで来たのだ。
そんな時代の中で、和歌の在り方も少しずつ変わる。江戸時代には庶民に向けた俳句などを派生させ、明治に入って文明開化の波から西洋文学のひとつとして詩という型(新体詩)が入り、蒲原有明や薄田泣菫によって象徴詩が確立、萩原朔太郎が口語自由詩を確立させ、現代へと継がれて来た。
型は異なれど、日本人が培って来た詩情は、和歌から脈々と培われてきた情感から外れることはないのだ。

そして現代、表面に表れるセンチメンタルの吐露ではなく、その奥にあるパッションを炙り出し、自らの感情とぶつけて火花を散らす。それが心に火を灯すことで詩に心を揺さぶられるという感動が生まれるのだ。
それは私たちの生活における有用性など微塵もなかろう。だが、この喚起への呪文として心に響く不可思議な衝撃は、必ずしも無用とも言い切れないものだったりする。
だからこそ、一度はしっかり味わう価値があるのだと信じているのだ。

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