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誰もがうんこ製造機

ワーキングプア・嘘・三森です。菓子パンばかり食べていると魂を冒涜しているみたいな気分になってくる。ちなみに酒はやめました。タバコもやめました。付き合いだけにします。低気圧のせいかはたまた栄養失調のせいか頭痛が酷い。

最近、ブログが楽しい。うんこみたいなアウトプットをしても誰にも怒られない。できるだけきれいな形のうんこをしたいとは思っているけれど、残念ながら、どんなに形や色がきれいでもうんこはうんこなのでそこは開き直ることにした。

それにしてもとんでもないタイトルをつけてしまった。色々、説明しないといけない。元々は「自傷行為をしよう」というタイトルだったのだが、見出しのほうに差し替えた。

進んでリストカットしなさいと言いたい訳ではありません。厳密にはリストカットもそうしないと生きていけないから、しょうがなくやるものだ。

ブログもそう。酒を飲み過ぎると二日酔いになるように自分にとってブログとは自分で自分を救う行為だ。やらないとやってられない。そういう意味では、今日も俺は自傷行為に励んでいることになる。

言うまでもなくここにはうんこしか置いてないので食べ物があると思ってきた方には謝らないといけない。ここではただうんこしたいだけの男のいきみによる咆哮しか書かれていません。

自傷行為をしよう

隙あらば深刻になる男だ。やりたいと思っていてやっていたことがいつの間にか「他人のため」にすり替わり、知らぬ間に期待に応えるために生き始めてしまう。よく考えなくても、人は自分のために生きてもいいはずなのだ。

俺はバグっている。常に混乱している。自分の言いたいことがわからない。人とつながりたいのかもわからない。何をして生きていけばいいかもわからない。わかるのは俺が混乱しているということだけだ。

何百回も自分に言い聞かせないといけない。俺はあくまで自分のためにやっているのだということを。そこを端折ると簡単に心が折れる。俺は何かのプロでもない。教えることもできない。甘えん坊のアマチュアの甘ちゃんだ。

俺は放っておくと直ぐに退屈する。暇だから始めたブログもやったらやったで二日酔いみたいな反動がやってきて、この世界に俺が向いていることはないのかもしれないと深刻度マックスになって手首を切りたくなる。

手首を切る。なぜ、人は精神的に追い詰められるとリストカットするのだろうか。今まで考えたこともなかった。自分だって生きているという実感を痛みによって得たいのかもしれない。

俺は放っておくと直ぐに死にたくなる。うんこ製造機として穀潰し生活を全うする中で、時間だけが余り、やることもやりたいこともなくなり、虚空を見つめてはうんこだけでなくため息も漏らす。

唯一、今はブログを書くことで生きている実感というか正気を保っている。俺は放っておくと直ぐに一人になる。社会と切り離される。一人になるくらいだったら、ブログを書いた反動によって孤独感を覚えるほうがいくらかマシである。

虚無に陥ると本格的に死にたくなるから、そうなる前にインターネットという場所でうんこして恥を晒しているほうが生きている心地がする。筋肉痛と同じようなもので多少は痛みがあるくらいのほうが結果的に成長しているという感覚も得られる。

卑下はよくないと言われる。本当にそうだろうか。俺は自虐が好きだ。自分のことをゴミクズ人間とか言いたい。言えばいいのだが、そういうことを言うのはよくないのかなという思いが先走って慎む。

自己憐憫に浸っているだけかもしれない。それでもしょうがない。俺は自己憐憫に浸りたいのだ。こんなことを言うと哀れだと思われるかもしれない。しょうがない。俺は哀れなのだから。

引きこもり時代、俺の人生は終わった、八方塞がりだ、どこにも出口はないと思っていた。普段から、「障害者になれば生きていることが許されるのではないか」という思いが強かった。

そんな折、ネット上で見かけた、事故で障害者になった人が障害者になったことでようやっと安心したという内容のツイートか何かを見かけて、半端じゃない共感と同時に「この世の中は狂っている」とも思った。

生きている意味がわからないまま過ごしてきた人も、車椅子生活になったことで生きる理由を見つけたという人もいる。不思議だ。体に傷を負った後のほうが充実した表情を見せているのだ。

物質的に豊かにはなった。が、精神的には消耗している人が多いと思う。生きる理由を見つけられないまま苦しんでいる人が多いという印象だ。不思議だ。誰もが本当は何もせず、純粋なうんこ製造機になりたいはずだ。

そして、誰もが本当はうんこ製造を楽しみたいはずだ。出して気持ちよくなりたいはずだ。でも、人前でうんこすることを極度に嫌っているようにも思える。

やりたいことをやろうという言葉が蔓延している割にはやりたいことが見つからないという人も蔓延している。人間は一体何を求めて生きているのだろうか。

人間は夢を見ることに慣れさせられてしまったのではないだろうか。自分にはもっと可能性がある。そういう躾が施されてきたのではないだろうか。子供の頃から、「夢はあるの?」と大人から質問される。

大人は自分の子供には公務員になってほしいと思っている人が多いと思う。夢はあるか聞いておいて、現実はとにかく勉強して安定した職業に就いてほしいというのが本音の大人ばかりだ。欺瞞だ、何もかもが欺瞞だ。

そりゃバグるぜ。夢を見ることは大切と躾けられるのに受験勉強を押し付けられて育つ。校則で化粧はだめなのに、社会に出たら絶対に化粧をすべきだという矛盾に似ている。

やりたいことを見つけなきゃだめだと言われて育つ。本来の人間なんて、やりたいことなんてあったら奇跡、基本はないものだと思う。誰もが大谷翔平にはなれない。でも、どんな親も大谷翔平や藤井聡太を育てようとする。

俺が障害者になりたかった理由は、生きていることをそれで許されると思ったからだ。何もしていないことがそれで正当化されるはずだと思っていた。10代後半の俺はそれほど追い詰められていた。

努力が大切だと言われる。その通りかもしれない。でも、今は努力しても報われないことなんて学生でもわかっている。普通に生活できたらそれで十分だという世代が育ってきている。

執拗に夢を見たところで理想と現実のギャップに苦しむだけだ。インターネット社会である。いとも容易く人と自分を比べられる。どの分野でも能力に長けた人は大勢いる。すぐにわかる。戦っても疲れるだけだということが。

それでも戦え、戦えとせっつく。まるで、戦った先の安堵のためではなく、戦うこと自体を美徳にしているかのようだ。人間の基本は怠惰だ。誰だって働きたくない。働きたいとすれば、暇を潰すためにだ。

遊ぶために生きる。ではだめなのだろうか。本屋に行けば、頑張らないで生きよう系の本がすぐに見つかる。もう限界だろう。確かに金を稼がなければ生きていけない。でも、もっと大事なのは、ここに自分の居場所があるという安心感だ。

老後の資金は大切。だが、もっと大切なのは生きることのほうだ。将来が心配だから働いて金を稼ぐ。大切。でももっと大切なのは死ぬために生きることではなく、生きるために生きることだ。

10年後のことどころか5年後さえどうなっているか予想もできない社会で夢を見るより大切なことがある。「こうあるべき」に縛られない、自分はこのままで生きていていいんだという実感の成長だ。

世間体が悪いのは問題ではない。世間体を気にしなくてはいけないのが問題なのだ。誰にも迷惑をかけないようにと言うが、極論、生きているだけで迷惑である。食ってはうんこするんだから。

健常者が上手に社会を渡っていけないのであれば、それはとてもおかしなことのように扱われる。だが、障害を持っていればどうだろう。俺はそう考えている時期が長かった。

普通のことができない。その普通とは何だろう。命そのものより、「できたこと」を褒められて育つ。幸い、うちの母は俺ができたことではなく、生きていることに重きを置いてくれるようになった。いい意味で諦めてくれたというか、諦めさせてしまったのだろう。

親が子供に対して、お前なら大丈夫と言ってくれるのはその後を生きる力になる。母は俺のことを心配しなくなった。いい意味で自分の話ばかりだ。俺が〇〇がしてきたよ、〇〇できたよなんて言っても聞く耳を持たない。自分の話ばかりだ。ちょっと寂しいが、それがちょっと嬉しい。

母には母自身の幸せを追い求め続けてほしい。俺は俺で生きる。絶縁されようが俺は生きる。野垂れ死のうがいい。覚悟している。過去、親がどのような期待を俺にしてくれていたのかはわからないが、一生、その期待には応えられそうにはないよ。諦めてくれてありがとうとしか言えない。

もう限界なんだよ。生きていても、やることといえば自傷しかないんだ。夢を持てたなら幸い。持てなくてもこれ幸い。ちゃんと生きるより、だらしなく生きるほうが難しいのだ。

引きこもり時代、嘘でもいいから親に言ってほしかったことナンバーワンを発表しよう。「一生何もしなくてもいいよ」だ。

人は何のために生きているのだろう。享楽するためではないだろうか。ちゃんとすることより、ちゃんと楽しんでいるかどうかが大事なのではないだろうか。安心できる場所があれば、人は何度でも出発できる。

楽しむというのは傷つくということだ。恋愛もそう。傷ついて人は成長していく。傷のない人生なんてない。生きているだけで傷だらけになる。だったら、傷つくことを愛していこうじゃないか。

俺はこれからも自分のことを傷つけていくだろう。何度だって自傷するだろう。その度に転んでは起き上がるだろう。その反復を愛したい。

生きるというのは生きたり死んだりを繰り返すことだ。それだけだ、それしかない。何に価値があって何に価値がないとかじゃない。生命は爆発していく。それだけだ。

そして、今日も君はうんこをするだろう。俺と同じようにね。これはうんこのすゝめだ。うんこするときは無理して力まないほうがいい。自然と出てくるまで待つのがうんこのすゝめの掟だ。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。