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ブログを書くということについて。

ようやく自力でノートPCを買うに至ったので、基本的に外出して作業する日が多くなった。家にいると落ち着かない。ずっとソワソワする。俺はいったいいつ落ち着いているのだろうかと自問自答してしまう。カフェで集中してブログを書いている最中なんかは幸せなのかもしれないが、二日連続で客が怒鳴り散らすという現場に出くわしてしまい、恐れおののき、ゆっくりできる場所を失ってしまった。しかも別店舗。怖くてもうあの周辺には近寄れない。せめて間を置きたいという気持ちから、今日は自宅待機中である。何も待ってはいないが。強いて言うなら、落ち着ける日を待っている。

書きたいことが止めどなく溢れてくる。何から書こうか迷う。ここは自由空間だ。あの漫喫のことではない。パブリックな場でもあるのに好きなようになんでも書けて、かつ、どこか鍵をかけた部屋の中という感じもしていい。あれ、やっぱり漫喫か。動物と人間の違いが「考えること」にあるのなら、最近、とても人間人間している。かといって考え過ぎて自滅することもない。思考が創作へとつながっていく感覚が楽しく、書くことで同時に考えることもでき、日記と違ってぶっつけ本番感のあるブログが好きだ。自分でも思ってもみなかった思考が飛び出してくるし、次はこうしようという考えも働き、いい意味で仕事に没頭しているような感覚もある。

プロの書き手ではなく素人なので肩肘を張る必要もない。以前までは書くからには正解を叩き出したいと思っていた。変わった。そんな頑張らなくてもいいや、たとえ矛盾していたとしても自分を許そうと思うようになった。だって、いいことを書くことが目的なのではなく、やること出すことが目的なのだから。とにかくハードルを下げること。それに一見矛盾しているようでも、実は深層では点と点が結び付いている部分があるのだろうと直感している。頭よりハートだ。具体性よりも抽象性を愛している。物事を始めるコツは「大げさにしないこと」だと思う。「やる」という意識が働くと、どうしても身構えてしまう。「自然と行う」くらいの流れがいい。一回一回力が入ると長続きしない。疲れない程度に遊ぶ(プレイする)くらいの感覚。

とはいえ、ある程度の我慢は必要だと思う。不思議と「やるからには我慢は必要だ」と思うと勢い付いてくる自分がいる。先日、「孤軍奮闘だと唱えるとやる気が出る」と書いた。私は、「突き動かしてくれる言葉」が好きだ。真の(とか言っちゃう)文章は人を突き動かす。勇気、やる気をくれる言葉が大好きだ。「君の詩を読むとドラッグやってんのかなと思う」と弟に言ってもらったことがある。文字列だけ読むと解釈はハーデストだが、物は言いようとは言ったもので意味より意味合いである。その感想が嬉しくて印象に残っているのだ。これを境に、自分の詩を「ドラッグ的詩」と名付けるようになったのは言うまでも、ある。

理由はいくつかある。狙っていたと書くと卑しいが、その前提を持って書いていたから。素直に嬉しかった。インターネットに触れていると元気を奪われることが多い。洪水のように溢れる広告だけでなく、何を見ていても平面的というか画一的というか形骸化しているように感じてしまう。IT化が進んでいるはずなのに、世界は2D化してしまった。ただ味を濃くしただけの商品にプレミアムという名が付くようになって久しい。もし、AI的詩だと評されていたら、それほど感慨深くもなかったかもしれない。AIには人間の心がない。愛(AI)と読むくせに愛がない。ドラッグを肯定し賛美しようと思ってはいない。あくまでドラッグ”的”である。そこには魂の叫びのような、深層意識の声のような3D的響きがある。

詩を書くのは、言葉にならない言葉を言葉にしようとする行為なのかもしれない。無論、言うまでもないがドラッグはやっていないし創作時に飲酒していたこともない。断然シラフだ。ドラッグやってんのかと思われるとしたら、さすがに不快なので一応。誤解されるより誤解するほうが悪いとは思うが一応。......カフェでの創作は捗ると思っていたが、意外と自宅でもいけた。カフェのあのノイズ感、BGM、机。家にいると自由にキッチンとか行き来できちゃうから、あえて制限のかかる場所に移動しているんだなと思う。それと適温。昔の人はやることが勉強しかなかったと聞く。やることが限られる環境を作り出せたら、気が散らずに集中力を維持できるのかもしれない。しかし、その前にまずはエアコンを買わねば......。真夏、怖い。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。