見出し画像

制限の力

村上春樹の『風の歌を聴け』の一節に「書くことは自己療養」と書かれていたと思う。

今日はよく眠った。夜の路上で空を見上げながら寝転がっていたら、まだら模様の雲がいきなり猛スピードで渦を巻いて、少し離れたところから目の中心に移動してきた。何だ何だと思っていると、遠くの空にオレンジ色の光の球が丸く膨れ上がっていて、ぐんぐん大きくなる。どんどん地上を飲み込んでいって、もうだめだ、これは隕石だと思った。体ごと飲まれ、夢だから痛みは感じなかったが、そのまま焼け死ぬと同時に目が覚めた。死と同時に目が覚めるという経験は初めてだった。悪夢とは感じなかった。不思議な夢を見たなと思った。

今朝すぐに便意を催した。スマホを見ながら用を足し、トイレを出て、洗面台へ向かう。昨夜ヒゲを剃ったから、いつもと違う人が鏡に映る。自己愛のような表現になるが、ヒゲがないと多少はイケメンになるなと思った。顔を洗い、メガネをかける。鼻の頭の毛穴、輪郭の凹凸がはっきりと見える、片方の度数が強いので、左右で目の大きさが変わる。さっきまでの自己評価はやや落ちた。

朝飯を食べ、ストレッチを軽くする。テストステロン値が上がっているような気がした。いたって健康的。デスクの前に座り、一ヶ月ほど毎日の習慣になっている「とりあえず文章を書く」を実践するためにエディタを立ち上げたが、まったく言葉が出てこない。昨日はあれだけ書けたのに。なぜかと考えた。

たとえばカフェにいると作業に集中できるのは家とは違って動くことができないからだ。家で飲み物が飲みたいと思ったら、すぐにキッチンに移動することができるが、カフェでは最初に注文したら、もうそれ以上、席から動けない。手元に集中するしかなくなる。家のデスクとカフェという場で集中力が変わるのは、気が散ったとしても意識が一箇所に留まるからだ。

そういう「制限の力」は朝と夜でも変わる。脳のエネルギーは夜にかけて減っていく。朝に書いた文章は理性的だが、夜に書いた文章は情緒不安定だ。それは朝はエネルギーが余っているから、いくらでも添削できる。夜は疲労が影響し、思考が曖昧になっている。「もうこれでいいや」と諦めが早くなる。投稿もしちゃえと思う。すべてのハードルが低く設定される。それが夜のパワーだ。だから、結果的に書けていることが多い。が、それを朝に見ると冷静になる。俺の場合は「書く」にフォーカスを当てているが、その内容はもちろん人それぞれだ。

誤解を生む表現かもしれないが、健康的な人ほど頭が空っぽだ。不健康な人はいつも何かに取り憑かれているように考え事をしている。その憂いは時に魅力にもなるが、本人がしんどそうだなと思うことも多い。あたかも他人事かのように書いたが、憂いに取り憑かれているのは俺自身のことでもある。今日の俺は健康なマインドだと思われる。余計なことを考えていない。だから書けない。療養する意味がないのだ。

良くも悪くもエネルギーが余っている。文章を書かないと「暇」が「退屈」に、「退屈」が「倦怠感」に移動していってしまう可能性を孕んでいる。余らせたエネルギーは経験上、あまり良い効果を生まない。「自分はだめだ」とか自身を蝕む凶器と化す。

文章を書くことで自己療養ができるが、健康であってもエネルギーはどこかに向かって放出しないと腐る。テストステロン値が下がる。人が寄り付かなくなる。負のエネルギーを燃やすと事件になる。エネルギーが負になる前に何か行動を起こす。それが俗にいう生産だと思う。

君が君らしく、僕が僕らしくあるためには(J-POPの歌詞みたい)、四方八方に放射するエネルギーをコントロールする必要がある。収斂のため修練。それが俺にとって文章を書くということなのだなと思った。

人は生きているだけでは満足しない。芸術が必要だ。遊び道具が必要だ。インプットだけではなくアウトプットも必要だ。時間がある日に何をするか。ポイントは意志の使い方なんじゃないかと睨んでいる。次回は意志について書いてみようかなと思う。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。