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イメージはダメージだ!

Amazon Primeでモダン・ラブのシーズン2を観ていたら、概日リズム睡眠障害という言葉を知った。検索してみると体内時計を外界の24時間周期に合わせることができず、普通の日常生活を送ることがままならなくなってしまう睡眠障害らしい。

「これまさに俺やんけ」と思った。どう考えても体内時計が25時間あって、昼型のサイクルで起きようとすると爆眠くて、よし十分睡眠を取れたなと思うくらいで起きようとすると昨日より起床時刻が一時間くらい押している。

今まで自分のことを普通ではないなと思う機会に恵まれてきており、齢31にして概日リズム睡眠障害でそもそもでまともに朝起きることができないことが俺の日常の可能性を大いに狭めているのではないかと気付いてしまった。

普通ってなんだ

「普通はこうだよね」という言葉を頻繁に耳にする。ところでその普通が意味する普通とはなんだろう。まずどこかに普通があるという幻想があるわけで、これは各々の感覚によって変わると思うから、自分が思う普通のイメージを共有していきたいと思う。

まず最初に浮かぶのが住宅のコマーシャルなんかでアットホームな家庭が映し出されるような、もしくは家族仲良くみんなで鍋を囲んでいるようなよろしくやってる風景。暴力や暴言は飛び交わず、今まで一度も喧嘩なんてしたことのなさそうな絵に描いたような中流家庭のイメージ。

まずこのイメージがわしを苦しめるのだと言いたい。捻くれたい。小学校さえ通えなかったこと。でも謎に卒業証書は受け取ったから、中卒認定にはなっている。そういうの逆にプライドが傷つく。

頑張ってだめだったから、仕事をしたいからなど何らかの理由で学歴が決まるなら自分で決めたことだから嘆かなくてもいいのだが、10代の多感な時期にインターネットに触れていて、それで中卒をバカにしているようなコメントを見かけるとその度に物凄いショックを受けた。

俺は普通じゃないんだなと。それから父による虐待があり、散々殴られ、暴言とツバを同時に顔に吐きかけられたりしながら、もがき苦しんでいた15の夜。盗んだバイクで走り出したかった。

ストレスばかりで弟とケンカは耐えず。しかし、この時点では自分の環境はおかしいとは思えなかった。それが当たり前の日常としてあったから。

聞いた話なのだけど以前YouTubeで、ある父親が配信を切り忘れらしく、その間に泣いている赤ん坊を小突いた事件があったみたいで、何より衝撃を持って受け止められたのは、そのそばにいた小学生の男の子は反応なくゲームに夢中になっていたそうだ。

「わかるなあ」としか思わなかった。だって、それがその子にとっての当たり前なんだからなあと。それが普通だから。

自分の境遇なんて判断できず、子供は環境を受け入れることしかできない。俺はその後、児童相談所に保護されたのだがしばらくしてからようやく俺は普通ではなかったっぽいぞと気付き始めたのだった。

インターネット全盛時代が近付いていたのもあって、嫌でも自分はおかしいというエビデンスが取れまくった。義務教育を受けていないこと(学歴がない)、虐待を受けて育ったこと、引きこもり期間が長かったこと。どれもこれもがどうやら少数派であり、中傷の的でもあるようだった。

しかしながら奇跡的な邂逅もあり、ここまで幸運にも不自由なく生かされてきた。世界は厳しいという見方が世界は優しいという見方に変わり、見方は味方になっていた。

イメージはダメージだ!

ここまで書くのに時間がかかり過ぎて、右肩の痛みが半端ない。ミックスナッツを食べている。うまい。心なしか美肌になった気がする。

閑話休題。で、何の話をしていたっけ。そうだ、普通はなんだって話だ。この前、岩城滉一のバイク番組をYouTubeで観ていたら、本人が「イメージはダメージだ」と言っていて、すげえいい言葉じゃんと思って検索をかけてみたら、グラドルのイメージビデオのタイトル名と被っていて戦慄した。

実際、イメージはダメージだと思う。ほとんどの人がこれに傷つきながら、もがきながら生きているとさえ感じるくらいにはイメージはダメージだ。

結婚しないといけない風潮、子供を作らないといけない風潮、ちゃんと働かないといけない風潮。そのどれもがそうであることが人として普通であるかのように話題にされ、そうでない人は蚊帳の外になる。

少数派である時点で間違いになり、時代の流れを汲むことが正しいことだと信じている大衆がいる。はみ出し者の場合、普通になろうとしても普通にはなれない性質があるし、どんなに追い詰められても開き直るしか手はなくなるから余計に苦しい。

わしは「もっと苦しんだほうがいいと思う」と面と向かって言われたことがあり、「でじま?!これ以上ですか?!」と内心ツッコミを入れた許すか許さないか審議中の記憶案件がある。

俺は楽をして生きてきたと思われているっぽかった。そんなのひどいよと心の中でしばらく引きずった。他人と同じような人生でないことは楽をして生きていることにはならないのだ。そう言いたい。

普通はこうだよねの普通が意味する枠から外れること。義務教育を受けなかったとか、虐待を受けたとか、そんなこと実は大して気にしていない。それよりもあるかないかよくわからない普通という名の幻想を押し付けられるほうがよっぽど嫌だった。

どうあがいたってもう普通にはなれんのだ。開き直るしかないのだ。そのへんの無理解が俺を苦しめる。人と接すると、「当然普通をあなたは目指しているのよね」というニオイを感じ取ってしまって沈黙するしかなくなる。

俺は別に社会で成功したい訳でもないし(できたらいいのかもしれないが)それこそ俺にとっての愛すべき普通のほうを生きていきたい訳で、そこらへん尊重してもらわないと肩身の狭い思いをすることになるのだ。

結局、イメージとは無理解であると思う。理解ができない相手に対して、イメージを持つことで理解したような気持ちになる。それは本当の理解とは思えない。理解とは長く時間がかかるものだから。

あなたの普通があるように、わたしにとっての普通もある。大切なのは価値観を押し付けたり、自分が持つ相手へのイメージを固執させたりしないことだ。人の数だけ人の価値観がある。

それこそが多様性の意味するところなのではないかと私は思っているが、そういった考えを発言するとバカに思われるのかもしれない。みんなが目指すべき多様性があるという幻想がこの世の中には渦巻いている。それが世間にとっての正義なのだ。

理由は簡単で考えなくて済むからだ。体力は使わなくていいから疲れないし下手したら美肌になるかもしれない。良いこと尽くめだ。だからといって人にイメージを押し付けてダメージを与えていい訳ではないぞよ。

親ガチャという言葉が最近ありましたが、あれはまさにイメージをこすりつける常套手段ですよ。すべて生まれのせいにしておけば、自分のことは考えなく済むという図式ですよ。それで本当に人は幸せになるのですかという。

「俺はやった感」の積み重ねによって自信をつけてきた。できることが少しずつ増えてきた。それが自己肯定感を上げてきたわけで、考えるのをやめて意味を安易にネットスラングに集約させれば自ずと人々から力を奪うことは目に見えている。

課題を見つけてクリアする。ゲームの中では当たり前にやっていることが現実では奪われている。本来だったら働くことや勉強することにも一種の楽しさがあるはずで、それがもうイメージによって「つまらない面倒なもの・こと」に置き換えられてしまっている。

少なからず、考え続けることは人に許された自由ではなかろうか。それがレッテルやらイメージやらに汚染されている。エコとかサステナブルとか言ってスーパーの袋を有料にしている場合じゃないぞ。海の汚染より心の汚染について考えたほうがよっぽと有益だと思う。

考えて、課題を解決し、それが社会貢献になり、利益が返ってくる。稼ぐ能力は自信に比例するように、人々に「これだけ考えておけばオーケー」みたいな思想をインストールさせたら、ますます人から考える能力を奪い、無力感が支配する世の中になっていくと思う。

なにこれおかしいという違和感を大切にしていかないと病的な全体主義に向かっていく。同調圧力が強く、自分の意見を持つと非難されやすい世の中にあって、個としてメンタルの強度を増すには押し付けられてきたイメージを払拭するように鋭利に考え、発言していくことではないかしら。

改めてイメージはダメージだと思いますよ。グラドルのイメ―ジビデオのタイトルになっているんだから間違いないでしょう。

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原宿駅前で撮った記憶

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。