見出し画像

一貫性なんてなくていい

Twitterは140字以上は書けないので、それなら長く文字の書けるTwitterとしてnoteを使ってみようと思い立った。ブログだとアカウント作成が面倒くさい。noteはエディタを開けば「書くだけでいいんだ」と思える。だから使っている人も多いのだろう。

唐突だけど生まれて物心がついてから10代半ばまでずっと猫と暮らしていた。猫がそばにいたからインドア派になったのか、インドア派だから猫が好きなのかわからない。そういう性分が今でも続いていると思う。

よく犬派と猫派で分かれる。俺は猫派だったけど、徐々に犬もいいなと思える感じになっていった。思えば20代半ばから外へ出かけるのが好きになっていった。柴犬とかゴールデンレトリバーとかすごい好きになっていった。

これまた唐突だけど、コロナも落ち着いてはきた。まだまだマスクをしている人は多く、自分もマスクしたほうがいいのか取っていいのか未だに迷うときがある。シチュエーション次第で取ったり付けたりしている。基本付けなくはなったけれど。

コロナによってインドアの楽しさを覚えた人も多いと思う。それが落ち着いてきた今、アウトドアの楽しさもきっとまた際立っていくと思う。

人って環境や状況にとても左右される。10半ばでは父が他界したのをきっかけに飼っていた5匹の猫を手放すことになってしまったし、20代半ばでは、それまで家にこもっていた自分が出会いを重ねていった時期でもある。

そして30代に突入する寸前にコロナが蔓延した。陰謀論もあったりしてコロナという言葉を出すのも気が引けるような変な空気もあった感じがした。時短営業とかいろいろあって再びインドア中心にの生活になった。

振り返ってみると人生にはあまり一貫性がない。自分の意志でやったことって意外と少なくて、外部の影響を強く受けて、しょうがなく環境を変えざるを得なかったことのほうが多かったと感じている。

個人的に今年はアパートの老朽化による立ち退き依頼があって、死物狂いの数ヶ月を過ごした。これなんて外部からの圧力以外の何物でもなかった。無事に引っ越しを終えて、周囲の環境もガラリと変わった。

人生には本当に唐突な出来事がたくさん起こる。その時々のシチュエーションで、コミュニケーションのとり方もガラッと変わったりして、自分でも驚くほど自分には一貫性がない。

こういう気持ちを吐き出したくてSNSを始めたりやめたりを繰り返しているけど、この「一貫性のなさ」がコンプレックスでもあった。

変な言い方になるけど「一貫性のない一貫性」もあると思っている。すぐにやることがコロコロ変わったり、noteにしても書き方がコロコロ変わったり。日記を書くのが好きなんだけど、今日はどうしても詩を書きたいという衝動に逆らえなかったり。それも個性の象徴だと思う。

ふらふらしてばっかりの自分に引け目を感じるときがあっても、一つたしかなのは、何をやったとしても「経験は残る」ということだ。

やりたくないことを無理にする必要はないけれど、やりたいけど怖くて足踏みしていることは臆しながらもやっていこうと思う。そこに無理に一貫性を求める必要もない。だって、その迷いも含めて個性だと思うから。

駄目でもともと。思えば、やんなければよかったなと思うことより、あの日からずっと続けていればよかったなと思うことのほうが俺はずっと多い。

文章が誰に読まれないとしても、絵を描いても反応がないにしても、音楽を作っても誰にも聞かれないとしても、自分の中にはすべて残っていく。それってけっこう、未来への自分へのプレゼントだと思うのだ。その活動を喜んでくれる人、応援してくれる人がいるなら、尚のこと「やる理由」も増える。

最近、毎日のようにブログを書いている。その文章を彼女が読んでくれて「安定したきたね」と言ってもらえて嬉しかった。弟にも面白いところってあったかなと聞いてみた。そしたら「ペットロスコーヒーの最後、続きはどうなったんだろうって余韻があって好きだな」と言ってもらえた。

面白がってくれる人もいる。それが家族だから贔屓してくれているとしても、人は人。その評価をちゃんと受け取りたいなと思った。

ちょうど一ヶ月前に記事を更新したのが、ずいぶん久しぶりだった。ブランクがあったから最初のうちはちょっと怖い感じがしていた。今は書くたびに「次はこうしよう」という気持ちが芽生えてきて楽しい。

相変わらずスキがたくさんつくわけじゃないけれど、評価がないことを恐れて何もできなくなるなんて惜しいなと思う。万が一、陰口を叩かれて、心が折れそうになっても、それは自分のせいじゃない。相手の心の問題だ。

嫉妬というのは自分と同じような立場の人が、自分よりも良い思いをしていると感じるときに抱く感情らしい。足を引っ張ろうとする人と、後押ししてくれる人がいたら、どちらの思いを汲んだほうがいいかなんて自明の理だ。

一貫性は個性に宿る。自分(個性)からは逃げられない。今後も死ぬまで付き合っていくことになる。それなら、潰すより発揮させたい。

変な人のせいで時間を取られたとしても、失った時間は戻ってこない。自分の人生の時間は戻ってこない。「こんな風に力を発揮してみたい」ということがあるとき、思い切ってやってみる。それで傷ついたとしても、それをやった自分を誇りに思おう。

人の一貫性のなさを指摘する人がいたら無視してどんどん次へ。自分のやりたいことをやっていこう。自分のやることすべてが一個の作品だと思おう。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。