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人生には、つねにもう一歩先がある。

この頃、家の空間を良くしようと試行錯誤している。まずは掃除や空気の循環が必要だと思って、新しい洗濯機(中古を譲ってもらうことになった)を迎え入れるために現在使用中の二槽式洗濯機の下や裏をまんべんなく掃除した。これだけでまるで家の波動でも上がったかのような気持ちになる。

波動とかいうとスピリチュアルな印象を持つが、言い換えると精神性みたいなものである。要は単純に気持ちがアガる。なけなしのマネーをはたいてサーキュレーターも導入したし、香り付きのお香も焚くようになった。なんだか最近、充足感がある。

あまりにも心地良い空間にすると家から出られなくなるかと思いきや、まったくそんなことはなく、毎日のようにどこかにいる。やっぱり体を動かしたくなる。体を動かすと心も動く。散歩とは心の空気の入れ替えでもあるなと思った。

家の中でじっとしていると悶々としてくる。外に行けば否応なしにスマホから離れる時間ができる(歩いているときとか)が、家の中にいるとどうしてもやることがインターネットだけになってしまう。

最近はそれが嫌で、家にいるならいるで部屋のレイアウト等を考えて時間を過ごしている。もしくはボーッと考え事をしたり。情報を仕入れるのは脳にとっては快感であっても刺激という面ではなんだかんだストレスになっているのだろう。

ネット上には気分が悪くなる情報がわんさかあって、知らず知らずのうちに精神に悪影響を及ぼしていると思う。自分にとって何の関係もないことでイライラさせられることがある。そういうときは何でもいいからとにかく他のことに意識を向ける。

まずは頭を冷やす

唐突だがつい先日、彼女とケンカをした。すでに仲直り済みなので、このようにあっけらかんとブログを更新できているのだが、その渦中となると激しい苛立ちと無気力が反復して襲ってくるような状態になる。

アドラーは悩みのすべては人間関係から始まると述べていたが、少しだけ補足するととりわけ恋人との確執による悩みはヤバい。生きる希望まで失うようなメンタルになる。

ケンカの詳細までは書けないが、原因はいつだって些細だ。問題なのはちょっとしたきっかけで俺が苛ついて彼女にぶつけるということが往々にしてあるということ。怒りに振り回されやすくなる。

正直なんでここまで反応してしまうのかわからない。たぶんなんでイライラするのかばかり考えていても埒が明かないと思うから、とりあえずイライラした後でどう対処するかについてよく考える。

辿り着いた答えはとてもシンプルで、まずはとにかく頭を冷やすことだと思う。一度頭が沸騰してしまったら、怒りが静まるまでこらえる。怒っている状態では何を言っても悪いほうへ転がっていく。

怒りとは毒だと思っていて、怒れば怒るほど全身に毒が回っていく。怒りは吐き出すものではなく飲み込むものだと決めている。発言の内容云々より、言ったときの気持ちが伝わる。

付き合いが長くなると距離感を誤りやすく、つい言い過ぎてしまうこともしばしば。相手を一人の人間として尊重することも忘れてしまいがちになる。

怒りと完璧主義と甘え

大人になると駄々をこねられなくなる。わがままを言うのは恥ずかしいこととして学び、溜め込む我慢も増えていく。いつしか自分の中で生きていく上での常識のようなルール・型が出来上がり、そのルールを守れない人がいると苛ついてくる。

自分は我慢しているのに、自分はうまくやっているのに、なぜあいつはうまくやらない、思うようにならない。自分の中にある価値観が根強く、例外を許せなくなる。完璧主義になると、自分のことだけではなく、人にも自分と同じであることを無意識に強要し続けることになる。

たぶん俺は彼女といる時間が長くなり、彼女を一人の人としてというより、自分と同化する面が多くなってしまい、相手が自分の思い通りに動いてくれないと自分という存在が引き裂かれるような気持ちになってしまうのかと思う。

前提として俺は完璧主義なところがあり、それによって怒りを抱えやすい。ただ四方八方に怒りをぶつけるわけにはいかないから、その溜めたストレスを身内に向ける。それは単純に甘えているのだろうと思う。

そんな風に思ったのには理由があって、そのケンカの最中に自分の頭の中がわりとシンプルにクズになっていたからである。

感謝されたい=自分を認めてもらいたい

それなりに言い合った後に、まだ苛立ちが収まらず、リビングに突っ立っていた。くちびるを全力でへの字にしながら、エアコンを見つめ、涼しくていいなと思ったと同時にはたと、しかし誰のおかげでこの部屋が涼しいと思っている、と思った。

そのエアコンは友人から買ってもらったものであり、俺は一円も使っていないのだが、脳内では俺を経由して貰ったプレゼントなのだから、俺に感謝の一つくらいはあっていいはずだぞと、たまにある俺のおかげだぞモードに突入した。

残酷なのはイライラしながらもその自分をメタ認知していて、「今の俺ってほんとうにブサイクだなあ!」と脳の一部では情けない自分を憂いていることである。

幸い、思っただけで直接それを言うことはなかったが、怒りや苛立ちに支配されてしまうとだめな自分がぐわっと出てくる。

昔から、優しさは気付かれてしまったら優しさではなくなると思っている。たとえば弟は俺が気付かないうちにトイレや風呂の掃除をしている。感謝されるためにやっているのではなく、きれいにするために掃除をしている。

一方で俺はといえば、何をするにしても必ず心の奥で感謝されたがっているし、頑張ってやっているよ感を出さないと気が済まない。

感謝や労いといった見返りを強く求めている。本当の徳とは誰にも気付かれないところで積まれている。もちろん感謝は気持ちのいいものだし、多くの場面では礼儀として必須でもあると思うのだが、自分がやりたくてやっていることで強制すべきではない。

どうしてそんな風になるのか考えてみたが、人生がうまくいかないことへのフラストレーションだったりが無力感に置き換わり、自分のことを情けなく思い、そんな自分でも家庭内では力があると思いたいから、無意識にせよ不機嫌になったり怒りを見せることで自分の言葉一つで物事は動くんだぞと権力のアピールをしたがっているのかもしれないと思った。

結局は自分が存在することを誰かに認めてもらいたい弱さからきているのが今回の場合でいえばもっと感謝されたいだったのだと思う。怒りに支配されると、その怒りを認めるために、ケンカの原因とは関係のないところで、また別の怒れる原因を探し出そうとしてしまう。

最低限の礼儀を忘れない

当然だが、どのような関係にも最低限の礼儀というものがある。慣れた付き合いになるほど、その慣れから相手へのリスペクトを忘れやすい。恋人同士付き合っている以上はどこか依存関係でもあると思うから、相手に甘えたいとも思う。機嫌を損ねている自分だって受け入れてもらいたいと思う。

共依存とは自分と相手の同化が過ぎることだと思う。しかし元は別々の人間だ。同じ家庭環境で育ったわけでもないし、相手のことをどれだけ知ることができたとしても、完璧に知ることはできない。

ぶっちゃけ運命の相手なんていない。別れたら死んじゃうような気持ちになるだろうなと思う反面、本当は相手なんて誰だっていいのだと思う。ただ、相手を運命の相手に仕立て上げるのは自分の意志(付き合い続ける努力)が必要だ。

誰だっていいと書くと非情に思えるけれど、誰だっていいからこそ選ぶことに価値が生まれる。一時代前のようなお見合い結婚も、決してすべてがうまくいかなかったわけじゃないと思う。しょうがなく結婚した相手だとしても運命の相手にすることは自分の意志でできる。

今はそういう時代じゃないから、縛りがない分、とっかえひっかえできる。それはそれで自由だろうけれど、粘り強く相手を愛する力は全体的に減っているような気がする。

自分の思い通りにならないなら捨てる、そんなこともできてしまう。果たしてそれが自由と呼べるのか俺にはわからないが、そういうだらしなさは俺はあまり好きになれない。

どんな相手だとしても、自分が選んだ相手と付き合っている。文句が出てしまうことも人間だからある。お互いいろいろある。それでも相手を一人の人間として愛していくため、どんな状況に陥ろうと最低限の礼儀だけは忘れてはいけないと思う。

必要以上の甘えにノーと言えるか

恋人相手になら自分のすべてを受け入れてもらいたいと思う。そういう理想がある。ドロドロした感情を飲み込んでもらいたい。そう思う。それはとても自分勝手な話だと思う。

言いたいことがあるなら言ったほうがいいけれど、言っていいことと悪いことがある。俺の不機嫌を彼女が一身に受け止める必要もない。

深い信頼関係があったとしても、必要以上の甘えにはノーと言う。それは自分を守る行為でもある。恋だの愛だのの前にお互い一人の人間。八つ当たりしても何でもありみたいなモードを許されたいとなると、相手が好きとかより、自分にとって都合がいいかだけが優先されている。

恋が主従関係にならないように。うちの母は父に逆らえなかった。どんどん暴力が悪化していった。次第にどんな些細なことに対してもノーと言うことができず、最終的には家庭がめちゃくちゃになり、施設へ逃げ出した。

「自分が支えていると思っているものに所詮は支えられている」という恩田陸の言葉を思い出す。履き違えないようにしたい。

彼女にパンチを食らわせていた

ここまで淡々とユーモアもなく反省文のような内容を書いてきて、まださらに反省しなければいけないことが発覚していたのだった。仲直り後に何の話からその話になったのかまでは忘れてしまったけれど、彼女から伝えられた話が衝撃的だった。

数年前のこと、彼女と電車移動中に俺が座席にスマホを置いたまま扉を出てしまいプチパニックに陥ったことがあった。忘れ物は滅多にしない質なので、どうすべきかよりも大切なものを忘れてしまったことのほうに意識が持っていかれ、どうして俺はこんなんなんだと自分を責め続けていた。

周りが見えなくなっていた俺をフォローしてくれるように彼女が忘れ物センター的なところへ電話をかけている最中、なんと俺は彼女の脇腹をパンチしたのだという。実際はちょっと強く小突いた程度らしいとのことだったが、突然のことにパンチほどの衝撃を受けたようなので、ここではパンチと書かせていただく。

彼女曰く「なぜ殴る!?」と思ったそうなのだが(至極当然の反応です)、俺が無意識に手を出しているように見え、そのときはしょうがないと見過ごしてくれていたそうだ。

なんだそのDV男ひどいな。意味わかんないぞ。と他人事にしようと思ったが、あいにく犯人は俺とのことで、俺は悲しみに悶えた。いや悲しいのは彼女のほうなのだけど。人生で弟以外殴ったことがないと思っていたのに、親愛なる彼女を殴っていた。

その記憶がないことと手を上げた自分に失望し、同じことを連呼するインコのように「すまん」しか言えなくなった俺を慰めるように「ちょっと引っかかってたからごめんね」と彼女のほうから謝られ、俺は虚空を彷徨った。

今まで俺は自分のことをスーパーハイエナや乞食界のエリートなどと自負してきたが、仮に俺が彼女に森林の中に打ち捨てられ、路頭に迷っても、きっと誰も助けてくれないだろうなと思った。こんな惨めな俺。もし打ち捨てられたら、道路脇の側溝にでもはさまりながら、星空でも眺めるのもいいなと思った。星が出ていればの話だけど。

負のエネルギーは自分で終わらす

つい人の悪口や陰口が出てしまったりすると、自分でも結構引きずる。そんな状態になるんだったら、始めから悪く言わなければいいだけのことなのだが、気付いたら漏れ出す負のエネルギーがある。

彼女が落ちていると、自分まで同じような気持ちになるからか、それを彼女のせいにして寄り添うよりも叱責して追い込んでしまうパターンがある。

彼女が上がれば自分も上がると思い込んでいるのだろうか。たぶん逆だ。まずは自分を上げる。誰かに上げてもらうのを待つのではなく、自分の状態をとにかく良い状態に保とうとする。気分が悪いなら、気分転換するなり、まずは頭を冷やすなりして、冷静になってから言いたいことを言う。

完璧主義だとすぐに相手の対応が悪い、態度が悪いと嘆く。魂のレベルは毒を飲み込んだ数だけ上がっていく。

恋人が別れる理由なんかでは頻繁に「価値観の違い」というフレーズを聞くが、実際、価値観なんて大したものじゃない。なんか起こればすぐにコロッと変わってしまうような価値観を自分自身だと思い込んで、自分のプライドを守ろうとするから、「人のせい」にしてしまうのである。

価値観の違いを尊重し合っているように見せかける以上に、負のエネルギーを自分で終わらそうとする精神のほうが遥かに大切だと思う。唯物論全盛の時代では、何もかもが情報に支配され、心が失われかけている。

もう一歩先。たぶん人生には、つねにもう一歩先がある。自分は今ここにいるかもしれないが、今ここがすべてではない。過去があり、現在があり、未来がある。絶望がずっと続くこともない。

その絶望がいつかは晴れてしまうことに罪悪感を覚えたりもする。抱えていないといけないような気もする。でも実際は手放すことができる。人生はずっと同じではない。変化していく。それが生きる意味だと思う。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。