見出し画像

夢を見るという夢を叶える

先日、「正道は帰ってきた時に『楽しかった』じゃなくて『疲れた』と言うんだ」と弟に言われた。自分でもほへー俺そうなんかと思ったが、よくよく考えてみればそうだ。

遊びに行った日でさえ、疲れたと言っている。たぶん、疲れた=頑張ってきたという図式があって、それを伝えることで頑張った自分を認められたいという欲望が渦巻いていたのかもしれない。

幸せになっていいはずなのに、幸せになることを自分に許していない。そんな気がする。無意識に幸せであってはいけないという謎の強迫観念がある。頑張っているから生きていていい訳ではないことを思い出したい。

夢を見るという夢を叶える

最近、自分の欲に気付きやすくなった。実はかっこいい車に乗ってみたいとか、バイクに乗ってみたいとか、免許も持っていないのに思う。でも、10代の頃から我慢が当たり前で年々、高望みしなくなった。

夢を見るという夢を叶えてもいいじゃないかと思った。夢を叶えようとするどころか、夢を見ることさえ忘れている。忘れていることさえ忘れている。

人は欲を封じ込めることに慣れ始めると不幸になる。今は酒も飲むし、たまたまあればタバコも吸うようになったが、心の奥ではそれだけじゃない、叶えたいことはいくつもあると思っている。

禁欲的であることが当たり前になり、もはや無意識レベルで何も望まなくなってしまったように感じる。人間関係も同じだ。顔色をうかがい、角が立たない発言をし、反感を買わないように生きることがさも当然になっている。

縛られることに慣れてしまった。こうすればうまくいくという安全装置のようなシステムが頭の中に導入されていて、それで生きやすくはなっても何か大切なことを代わりに失っているような気がする。

望めよ、挑め。幻であってもいい。望むことはイコール希望だと思う。夢を見るということを心の片隅に置いておくだけでも、未来の見え方は変わってくる。

ちゃんとするということは何でもかんでも自力でやるということではないと思う。実際に人の力を借りることがなくても、いざとなったら頼れる人がいると信じていることは心に大いなる力をもたらしてくれる。

子供に夢はあるのと聞くのは普通でも、大人に夢を聞くことは少ない。子供に夢を持たせたいなら、まずは大人が少しでも夢を見なくては。夢を見るという夢を叶えなくては。それには他力を信じなくては。

人に頼ることは恥ずかしいことではない。必ずしも迷惑をかけることでもない。肩の力を抜いて、夢を見る大人になれたらいいなと思う。大切なことは頑張ることではなく、楽しむことだ。

画像1

LINE ID:mitzparty

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。