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人生を甘くする考え方を考えてみる

何回やっても苦手なものがある。食器洗いだ。魚を焼いたグリルをスポンジでゴシゴシと洗いながら、頭の中で計算してみる。一日食事を二回したとして、それを十年間続けるとする。一年は365日あるから、十倍にすると一日一回の食事で3650回。それを倍にすると7300回。30年生きているのだから、その内の半分の15年は食器を洗っている。滅多に外食はしないので、少なく見積もっても、7000回はほぼ確実に食器を洗っていることになる。とんでもない数字だなと思う。やらなければいけないことなら人は苦手なことでも頑張れるのだなと思う。

相変わらず、梅雨入りによって重力に負けている。脳内がギュッと締め付けられる感じがして、基本的に「死にたくなったら天気を疑え」が合図だ。人は身体から来ている症状も、精神と結び付けて考えてしまうことがあると思う。「死にたい」ともしも思ったのなら、身体症状から疑ってみるべきだ。食習慣でいえば日本は欧米と違い、食後にデザートを食べる習慣がないらしい。理由は、料理自体にたっぷりと砂糖が入っているからとのこと。ここにさらにコンビニスイーツや甘い缶コーヒーを摂取してしまうと血糖値が上がり、イライラ、倦怠感、眠気などの症状を招く。

天気や食事、実は精神とは関係のないところで肉体に影響を及ぼしている可能性があると考えられると、自分自身の精神状態にも理由が付く。夜に書く告白の手紙は情緒不安定になりがち。次の日の朝に読んで、急に恥ずかしくなるパターンは多い。物事は「咄嗟」に決着してしまうことがある。最大の資源の無駄遣いは卑屈になることだ。自分自身を責めても、いいことなんて一つもないと思う。いきなり死んでしまうなんてことがないように、自分に甘くなる瞬間も必要である。自分に厳しい人が多い。砂糖の代わりに自分に対して甘くなるような考え方があってもいいじゃないかと思う。

お金について考えてみる

何をやっても人として恥ずかしいことをやっているのではないかと思ってしまうくらいに日々ちゃんと絶望しながらコーヒーミルを回している。俺はいつ人の道を外れてしまったのかと自分に問う。生まれつきだと思う。一貫校のことを俗にエスカレーター式と呼ぶが、俺は生まれつき階段式だった気がしないでもない。人生、常時、緊急事態宣言発令中なので、コロナによるダメージを受けている気がしない。「ちゃんとする」の「ちゃんと」の意味がまるでわからず育ち、今でもまだ理解できていない。「将来どうするの」と看護師に言われたことがあるが、「お前は将来をどうしたつもりだよ」と悪態でもついておけばよかった。

生まれたときから乗っているレールが違う気がしている。向こうは新幹線だけど、俺は鈍行な気がしている。向こうはコロナ以前を生きているけれど、俺はコロナ以後を生きている気がする。「向こう」ってなんだ。どうしてこうも自他を区別してしまうのか。学校教育を受けなかったからなのか、それとも父の影響によるものなのか。そう考えてしまう時点で、どこか自分だけ辺境の地にいる証拠のような気がしてきて、また深いところに落ちていく。

「世の中金だよ」と言う人がいる。「本当にそうか」と思う。「世の中金じゃないよ」と言う人もいる。「本当にそうか」と思う。二者択一で決まる話ではないような気がする。「お金はお金より大切なものを守るためにある」と漫画のセリフにあったが、金はなくても困るし、あったらあったで守りに入ってしまう。金は金でしか買えないものしか買えないし、世の中金だよと言うほど金じゃない気もするし、金がなかったら大切なものを守ることもできないのかと思うととても大切なもののようにも思えてくる。

どこへ行くにも交通費が必要になる。ここで思う。「ちゃんとすること」、「将来を考えること」はすべて金につながっているのではないか。金を稼げる人間がまともで、そうではない人間は脱落者とされているのではないか。だとしたら大変な差別である。「このまま結婚して子供が生まれたらどうするつもり?」。もしも新幹線の先がエスカレーターの先が、結婚すること、子供を作ることだとしたら、なんとはた迷惑な話だろう。甘ったるい香水の匂いに鼻をつまみたくなってくる。

認めさせに行く

まるで就職が人生のゴールかのように。「頑張ってるね」。世の中の9割の褒め言葉は社会適応時に使われている気がする。だとしたら、社会不適合者はどうすればいいのだろうか。「社会のせい」だと嘆けば、負け犬の遠吠えになる。俺が絶望しながらコーヒーミルを回している間、世の中は金で回っている。唖然とするほどの鬱病患者数、自殺者数。まずは社会に適応してから死ねということだろうか。俺は考え方を考えていきたい。人の気持ちを軽くさせたいし、そのためにもまずは自分自身の心を軽くさせたい。

仕事を辞めたら、恋人と別れたら、レールから外れたら、嫌味でも何でもなく「おめでとう」と祝ってやりたい。刺青を消したときにでなく、入れたときに「よくやったね」と言ってやりたい。結婚なんてしなくても、子供を作らなくてもいい。それに認証さえいらない。だめ人間なんていないよと言いたいし、自分自身のことを落ちこぼれだとは思いたくない。これでも一生懸命に生きているのである。自分で言うのもなんだが、それなりの苦しみを抱えて生きているのである。その差異を埋めることはできなくても、語ることならできるはず。

逆張りではない。自然と逆を張ることになるだけだ。社会不適合者とはそういうものなのではないか。SNS全盛の今、凄まじいほどの同調圧力がある。多くの人が自分と同じになれと嘆願している。「みんなちがって、みんないい」という有名な言葉があるが、そもそもでみんな違う。同じようなフリをして生きているだけだ。まったく同じ人生なんてないように、まったく同じ人間なんていない。同調圧力に負けないでほしいと思う。差異を認め合うことが多様性を認めるということなのではないだろうか。

絶望とは、「望みが絶たれる」と書く。望んでいる状態は意外とキツいと思う。いっそ望みが絶たれたほうが楽になるなんてことあるのではないだろうか。諦めることは弱さではなく強さだ。今の私にとって発言しないことは考えにくい。意見を言うこと、人との差異を言葉にすること。受動的に認めてもらうのを待つのではなく、むしろ認めさせに行きたいとさえ思っている。結果はどう転がってもいい。認めてもらうことに意味があるのではなくて、「認めさせに行くこと」に意味があるのだと思う。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。