仕方なく身に付けたもの

小学生の頃、1~2ヶ月に一回は、両親から旅行に連れて行ってもらっていた。

何処に行ったかどうかの記憶はおろか、その時何を感じていたかの記憶も残っていない。

そのかわり、道中の車の中から見える様々な家とすれ違う度に、
よその家はどうなっているのか、どんな人がいて、どんな生活をして、どんな家具を置いて、どんな笑顔があるのか。
そんなことが、頭の中で気になっていた。

旅行から帰ってくるときは、家に帰っているというより、家具の置かれた暗い空洞に戻っていくような、変な感覚になっていた。
田んぼと国道しかない中にポツンとある場所だったからかもしれない。空虚感を視覚化したような家だった。

15年間、確かにそこで過ごした。その感覚こそ、自分にとって、慣れ親しんだものなのだ。

自営業に加え、比較的広めな一軒屋だったからか、他人からは、幸せに育った印象を勝手に持たれる。

私立の高校に私立の大学、さらには大学院にまで進ませてくれた家庭。
確かに、
誰が見ても「恵まれた家庭」だ。

さらに、高齢出産の両親というワードを出したら口を揃えて「可愛がられて育ったんやね」と言われる。

そんな大多数の世間の声には抗わない方が丸く収まることを、自分は学んでいった。違和感と不快感を胸に抱えたまま。


外から見た印象と、実情の違い。
10代の頃から身に染みて感じていたもの。

金銭的に恵まれているかどうかと、
どう感じて育ったかとは、全くの別物だ。



自分は仲良くなった誰かに、考えていることや感じていることを話すと、
必ずといっていいほど意外がられる。
それだけ、他人に与えている印象と
実際に考えていることはズレているんだろう。


自分は、決してポジティブなタイプの人間ではない。それでも、より幼い頃は、ただただ無邪気だった。幼少期の写真に写っている自分は、まだこの世になんの疑いも失望も覚えていないほどに笑顔だ。

どれか本当の自分なのか?という言葉はよく見聞きするが、きっと、体験や経験の歴史が今の自分を作っているだけだ。

そうやって、成りたかった自分像を、躓いた体験や歴史から、「仕方なく」変更してきた人は、多いはずだ。




今、目の前にいる人や、接している人に対して抱いている印象やイメージは、実はその人が「仕方なく」身に付けたものかもしれない。いろいろな歴史の中から作られたものなのかもしれない。なりたくてなった人物像ではないかもしれない。

そう想像してみるだけで、人に対する見方や深さが変わってくる。理屈で捉えるのではなく、そうイメージして接するだけで、相手に対する懐が少しは深くなるかもしれない。

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