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雪印乳業集団食中毒事件(リスク・マネジメントと正常性バイアス)


事件のあらまし

 今となっては知らない人もいるだろうが、四半世紀前まで雪印乳業はバターやチーズの他に牛乳と関連製品も製造販売していたのである。ところが、2000年6月に同社の低脂肪乳などを原因とした集団食中毒事件が起きたことで牛乳事業は全農などの支援を受けた新ブランドMEGMILK等に分割され解体することになったのである。被害者は大阪市を中心に1万5千人近くと言われた大きな事件の結末だった。
 直接の原因は、大阪の加工工場の工程で黄色ブドウ球菌が繁殖し、その毒素が低脂肪乳などの製品に残存したまま出荷されたことにある。更に、その原因を探ると、3月31日に工場内電気室の屋根へ氷柱が落下したことから電気系統がショートし、約3時間の停電が生じて製造ラインが停止したことにある。
 電気室の屋根に氷柱が落ちることが予見できなかったのか疑問は残るが、むしろ、問題は停電事故が起きた後の品質管理やリスク管理が拙劣で、そのための十分な体制も整備されていなかったことにあると言えるだろう。

リスク認識の欠如

 通常、監査の問題として内部統制を分析評価する場面は、不正が行われたことが発覚した場合が多い。本件については、不正というよりは事故が起きた場合に対処するリスク管理の問題となるが、これも広い意味での内部統制の一環となる。なぜならば、統制とは逸脱からの回復を図るものだからである。
 後述する、厚労省および工場の所在地であり被害が広がった大阪市が立ち上げた専門家会議が調査した結果、食中毒が広がった背景には、つぎのような状況があることがわかった。
 ①現場関係者の衛生管理の知識が不十分であった
 ②停電事故の際のリスク、リカバリー手順等のマニュアルが未整備
 驚くべきことに工場長を初めとした現場関係者が、黄色ブドウ球菌が生む毒素エンテロトキシンについて熟知していなかったそうだ。それどころか、加熱殺菌したのだから食品としては安全なはずだと間違った判断を下した。ゆえに毒素が含まれた食品が出荷されたのであった。
 この程度の衛生管理の知識しかもたなかったから、リスクの認識も浅く、非常時のマニュアルも整備されていなかったのだろう。ところが、黄色ブドウ球菌が発見された装置のバルブは一週間に一度洗浄せねばならないルールだったのに、実際には3週間も洗浄されていなかったことがわかった。しかも、それが社長と工場長が臨んだ記者会見の場の質疑応答で工場長の口から明らかにされ、社長も初耳だったというお粗末さであった。これでは、マニュアルがあっても役に立たない。この点については、後で補足したい。
 内部統制上の問題点としては、以上のようなことになるだろうが、もう一つおさえておきたい論点がある。それは「正常性バイアス」と呼ばれる人間の心理傾向のことである。

正常性バイアスについて

 神戸市消防局がわかりやすくまとめたパンフレットによると、正常性バイアスとは「異常を正常の範囲内のことと捉えてしまう錯誤、心の安定を保つメカニズム」であり、2つのバイアス(先入観、偏った見方)から成っているという。
 一つは、「同化性バイアス」で異常が起きても、じわじわと変化している事態は背景(日常)に同化してしまい気づきにくい心理。もう一つは、「同調性バイアス」で集団の規範に同調してしまい周りと異なった行動を取りにくくなる心理とされる。要するに、人間は異常なことが起こったとは思いたくないものなのである。
 神戸市のパンフレットは、災害に遭遇した時に迅速に行動するための心構えを説いたものだが、雪印乳業の関係者がとった判断や行動は、この正常性バイアスに陥っていたと見ることができるだろう。
 後に明らかになったところによると、6月27日頃から大阪市や雪印に消費者から食中毒発症の通報が寄せられ、翌28日には西日本支社内に緊急品質管理委員会が設置された。ところが株主総会が終わった後で経営陣の意識が弛緩していたのか事態が正しく把握されず、社長にも報告が上がらなかった。「食べ合わせが悪かったのではないか」という役員もいたそうだ。
 同時期に、大阪工場では大阪市保健所から立入検査を受けて、低脂肪乳製品の製造自粛と回収を指導された他、再三、事実報告を求められたのに工場長ははぐらかしていたらしい。時間稼ぎをしている間に事態が沈静化すると期待していたのなら、工場長も正常性バイアスに陥っていたのだろう(事実を把握していたのなら単なる隠蔽だが)。部下の幹部一人が見かねて独断で保健所に回答して工場長に事後報告したところ怒鳴られたという。
 本件の被害者が広がった理由の一つには、経営陣や現場幹部たちが正常性バイアスに陥ってしまい、対応が後手後手に回ってしまったことも挙げることができるだろう。背筋が伸びた組織や責任者は、「悪い知らせこそ、早く報告しろ」と指示するが、そのような文化は当時の雪印乳業にはなかったようである。

現場の力の過信?

 戦後の日本の製造業の現場では小集団活動が励行され、実際に品質や生産性の向上に寄与したと言われていた。おそらく、それは正しいのだろう。高度成長を支えた製造現場のワーカーには勤勉で向上心が高い人が多かったに違いない。
 雪印乳業が本事案をひきおこした時のI社長は、1933年に生まれた人なので、おそらく昭和30年(1955年)前後に雪印に入社したのではなかろうか。日本企業の現場の力への信頼が強い世代なのかも知れない。その上に、この方は財務部長から社長に昇進したので、なおさら、製造のことは安心して現場に任せていたのかも知れない。
 ところが雪印乳業の事件の後、2010年代にかけても、多くの製造業の会社で品質の不祥事の事案が発覚したのであった。何が理由なのか明確には言えないが、I氏の世代が信頼を寄せていた日本企業の製造現場はいつの間にか変質していたのだろう。
 「リスク認識の欠如」の項でふれたが、マニュアルでは一週間に一度バルブを洗浄するルールとなっていたのに実際には3週間も洗浄されていなかった。ところが、事案を受けて全社的に点検を実施したのだと思われるが、この大阪工場だけではなく、東京日野工場と静岡工場で貯乳タンクの洗浄記録がなかったことが発覚して、全国21の工場の操業を一時期停止する事態にまで追い込まれてしまった。
 経営陣の現場への信頼感とは裏腹に現場は自律性を与えられながら、自己管理の能力が劣化していたというのが残念ながら、その後、不祥事が発覚した企業に共通して指摘できる実態だったと思われる。経営者は安心して現場に丸投げするのではなくて、内部監査をうまく使ってほしかったと思うところである。

参考資料
「企業不祥事インデックス第3版」(竹内朗ほか)商事法務
「企業不祥事事件ケーススタディ150」(齋藤憲監修)日外アソシエーツ
「正常性バイアス」神戸市消防局https://www.city.kobe.lg.jp/documents/54168/kobe-disaster-prevention-leader-text-chapter5.pdf


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