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モンテスキュー「ローマ盛衰原因論」

 ローマ史といえばギボンの浩瀚な「ローマ帝国衰亡史」が有名で、いつかは読んでみたいとは思っている。けれど、なにぶん大著であるし、ローマが帝国になってからの歴史を記しているようなので、まずは簡潔で、共和制の時代から説きおこしているモンテスキューの著書を読んでみた(中央公論新社の中公クラシックスという選書)。

 モンテスキューは筆者の大学時代のゼミナールの先生が社会学の創始者の一人と評価していた思想家だが、あいにくフランスの社会思想は勉強しなかったためモンテスキューも名前を知っているだけであった。

 本書を読むと解説にフランス革命のちょうど100年前の1689年に生まれ、18世紀の中葉1755年に死去したとある。ヨーロッパの知識人はギリシャ史とローマ史を学ぶ知的伝統があるらしいが、近代啓蒙思想の一翼を担い、爛熟しやがて腐朽するであろう王制国家のその先に思いをはせた彼にとってローマ史は未来の手がかりでもあったことだろう。

 ローマ人は偉大であったとモンテスキューはいう。彼らは精力的で勇敢で忍耐力に富み、しかも他の部族・民族のもつ良い文物を採り入れる進取の気性を持ち合わせていた。ローマは圧倒的に強大な都市国家であった。

 ここでモンテスキューはアテナイとローマの人口が、ともに当時としては大国の規模にあたる40万人強であったが、兵役を担う人口はローマのほうがアテナイを凌駕していたとする。ただ、アテナイはギリシャ世界をスパルタと二分するペロポネソス戦争に敗れたのに対して、ローマが帝国にまで成長しえたのは何故なのか。別して考える必要があるだろう。

 戦争の勝利は征服した相手国から奴隷と財貨をローマにもたらし、国を豊かにした。ローマと他国の格差は拡がるばかりであったが、ローマの他国に対する君臨が永続したのは他国が同盟を結ばないように巧みに分断しながら統治したこと、征服した相手国の王や貴族たちをローマ市民として扱ったことなど、統治の仕組みも優れていたからであろう。

 しかし、ローマの成功つまり超大国として他国に君臨していくにつれて、軍と将軍が元老院を凌ぐほどの力をつけて来た。ついにカエサルがルビコンを渡って軍を率いて凱旋してから、ローマの共和制が終わり、皇帝の統治する広大な「帝国」へと変質していった。

 ローマ市民は共和制の自由を失い、徐々に昔の優れた特性をも失っていったが、他国から流入する富および奴隷に依存した生産活動を基盤として、国家から与えられる放逸に身を委ねて安住することができた。国家の繁栄は内に富裕な新興階級を生み、内部の分裂は強権と対外的緊張によって繋ぎとめられる。

 つまり、成功は腐朽の原因を孕み、やがていつかは繁栄も終焉をむかえる。歴史の織りなす綾を要約すればそういうことになるのだろうが、それでもローマ帝国は長きにわたって存続することができた。衰亡の原因よりも、その繁栄の長さの要因のほうが知るべきことのような気がする。

(2015年8月)カバーは、Katarzyna Kolm-JanyによるPixabayからのモンテスキューの画像

《追記》上記は8年前の文章だが、わが国も経済の面では往時のローマと似たような環境下にある。外国からの安価な農産物・加工食品は然り。大規模な移民は受け入れていないものの製造業は低賃金の国に進出して国内は空洞化が進んだ。IT・金融・サービスを含めた第三次産業の比重が高くなり、国民は低賃金の就業者と豊かな成功者とに二極化している。(2023/2/10)

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