見出し画像

松濤から来た黒い犬

僕はBunkamuraの向かいにあるスターバックスの、通りに面した二階席に座って外を眺めていた。同じ外見のタクシーがひっきりなしに止まり、人を降ろしたそばからまた乗せていく。着飾った女たちが肩で風を切って歩いていって、人生であまり出会わないタイプの人間だな、と思う。

おそらく松濤から来たであろう、毛並みの良い大きな黒い犬が二匹。揃いのダウンを着た壮年の夫婦にリードを引かれてきた。頭のてっぺんからしっぽの先まで真っ黒で、クルクルとした毛はまるでぬいぐるみのよう。犬種はわからないが二匹とも血統の正当性が感じられる。

犬が好きだ。犬は可愛らしい。愛くるしく、元気いっぱいに遊ぶ。近所の友達の家に行く時、自宅で親に制限されていたゲームが思い切りやれることよりも(両親は僕がゲームキューブの電源を入れるたびにキッチンタイマーで30分測った)毎度突進してくるダックスフンドと遊べることが何よりも楽しみだった。僕は当時身体が弱くて、犬や猫の毛に触れると目が真っ赤になり鼻水が止まらなくなる少年だったが、それでもダックスフンドは超かわいくて、ティッシュを箱で消費しながら大乱闘をしていた。部活もまだはじまっておらず、特に習い事もない、小学3、4年の土曜日の午後。エアライドのシティトライアルが永遠に続いたらよかったのに、たまには外にも出なさいと友達のお母さんにため息をつかれて、しぶしぶ散歩がてら公園に遊びに行った夕方の、何とも言えない不満げな気配。大体誰かしらが公園で遊んでいて、そのまま一緒に缶蹴りなんかをして門限になった。

黒い犬は僕の目の前を横切って、交差点までまっすぐ進み、黄色い点字ブロックの手前で回れ右をして、来た道をまた松濤方面へ帰っていく。何度か左右に首を振っているが、それはあのダックスフンドが我を忘れて道行く人にリードをいっぱいにして突撃していくのとは違って、百貨店の革靴が並ぶ棚にちらと目をやる紳士のように上品だった。

すると、一匹がちょうど僕の正面で立ち止まり、おもむろにおしっこをしはじめた。それも電柱も何もない場所に、片足をあげるのではなく、まるでバレリーナのように斜め後ろに脚をピンと伸ばして。

松濤の犬は、なるほど優雅におしっこをするものだ、と思った。飼い主のツヤのあるダウンをきたおじさんは、注意するでもなく、無表情に犬を眺めていた。その姿にはただ時が過ぎるのを待つのがこういった場合の最適解だというような意思が感じられた。犬は道におしっこをするものだ。しかしそれが渋谷のど真ん中の、若いエネルギーが充満した一等地でも適用される話なのか、おじさんは顔色一つ変えずに思案しているようにも見えた。
もう一匹と、これまたツヤのあるダウンをきたおばさんは連れの状況を見ていなかった。一人と一匹は、まるでこの渋谷に海岸線があったころからずっとそのままの姿でいるかのように、微動だにせず、じっと松濤の方を見ていた。共に暮らしてきた家族としての絆がそうさせるのか、一人と一匹のシルエットはどことなく似ていて、イヌとヒトの二万年に渡る協働が脈々と受け継がれているのを感じる。
やがて犬がおしっこをし終わると、おじさんは電線に止まっていたカラスが地面へ滑空するようにスムーズに歩き出し、おばさんともう一匹の犬のところに合流した。そうして二匹と二人のパーティはそのまま人ごみの中に消えていった。

おしっこの色は遠目から見ると無色で、彼らが歩いていった後では水たまりにしか見えない。それは側溝に流れ落ちつつ、いくらかはそのまま歩道に溜まっている。
しばらくすると交差点の方から、結婚式に向かうであろうドレスアップした女たちが歩いてきた。何人かはスーツケースを勢いよく引いている。
揃いの白いフリフリのついた服を着た、地下アイドルのような女たちが5、6人走ってきた。
Bunkamuraの壁に貼られた展覧会か何かのポスターを良い角度から撮ろうと、カメラを持った青年が歩道に陣取った。
みんな、もう誰もそれとは気が付かない、犬のおしっこを、踏んづけていた。僕以外誰もそれがおしっこだと知らなかった。僕が通りに出て大声で叫び出さなければそれは永久にただの水たまりだ。そう思うとどうも汚らしい感じが消えているのがわかった。大型犬の勢いの良さで、じょぼじょぼしていた時のおしっこはいかにも排泄という感じだったが、皆にそれと知られることなく何食わぬ顔で踏まれていくその無色の液体は、確かに犬のおしっこではあるけれど、特に無害で、わかっていても、僕も目の前にあったら躊躇せずに踏むような、そんな印象になっていた。

僕はふと、ゲームキューブに名残惜しさを感じながら遊んだ缶蹴りの最中、いつも公園の外周の側溝に体をすっぽりと隠していたことを思い出した。あの時得意げに隠れていた側溝にもありとあらゆる犬種のおしっこが染み込んでいたことだろう。そして僕の頭の中に、そんな事実は無いのだが、友達のダックスフンドがその持ち前の無邪気さで、側溝に隠れている少年時代の僕の上から、短い片足を上げておしっこをしている情景が浮かんだ。

あれは水たまりではない、おしっこである。しかし通りすがりの人々はそれと知らずに踏みつけている。このように自分が思いもよらないところで、実は不幸に直面しているということは往々にしてあることなのだろう。僕だって知らないうちに誰かがくしゃみした手で触った吊り革を握っているなんてことがあるはず。

自分が知覚していないだけで様々な不都合に出会っていてもたくましく生きていくのが人生だというのに、たまたま自分が知った些細な事柄にめくじらを立てていちいち怒ることは、全くつまらないことである。

僕が仏教経典の編纂者だったら、こんなふうに寓話を作る、かもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?