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経営者意識

 異業種交流会に行くと、「経営者意識を持て」とか「社員はパートナー経営者」という意見を拝聴することが多いです。

個人的には「経営者」と「社員」は、親子関係に近いと思っています。
なぜなら、「経営者」とは「全責任を負う者(最後の砦)」という役割を担う者だからです。
確かに、役員や幹部、課長や係長を置いて、それぞれに一定の権限を持たせ、一定の責任を負わせることはします。
でも、「全責任」を負わせることはしません。
失敗すれば、財産や家、家族や命さえも差し出すぐらい責任を問われることになるのが経営者です。
一方、社員の場合は、与えられた役割について、怠慢があって結果が出せない時に、減給等の罰が与えられる程度の責任に過ぎません。
(部下が怠慢なく任務を遂行していたのに失敗した場合は、経営者の責任です。)

経営者意識とは、こうした「全責任を取るという覚悟」なのだと思っていますので、くだんの異業種交流会での「社員はパートナー」とか「経営者意識を持たせる(全員経営)」というのは、違和感を持っていましたし、実際、指摘したこともあります。
本当に「全員経営」をしたいのなら、個人商店の連合体(コングロマリット)といった会社形態になっていくでしょうね・・・
近年の若手経営者には、コングロマリット的な組織を構築している人も現れていますので、そういう場合は、「全員経営に近いスタイル」と言えるかもしれません。

「アメーバ経営」を「全員経営」という方もいらっしゃいますが、あれは、より細かく分けた「事業部制」のようなものです。
独立採算といっても、最終的には、アメーバの集合体のトップたる社長が全責任を負いますので。
いわば、最前線で戦う下士官を将に見立てて、武器弾薬の調達権限や進退の自由度を与える感じです。
これは、孫子の概念

将、外にあっては、君命も奉ぜざるあり

を導入したようなものになりますね。
(権限を譲渡した以上、その権限で為し得る全ての行為を承認したことになる。もちろん、不満を感じて解任することは可能。)
つまり、本当に全員経営なら、任せた社員が本業とは関係のない事業を開始したり、他部署との競争で潰し合いを始めたりしても、それを容認しなければいけません。
※)アメーバ経営では、フィロソフィー(経営理念)による縛りを設け、トップの意向に沿う行動が求められますので、アメーバ・リーダーに経営権はありません。
つまり、譲渡した権限が経営の範囲にまで及んでいない以上、全員経営ではない、ということになります。

「全員経営」とは、全社員に「経営権」を与えるということです。

それが出来ないのであるならば、むやみやたらと「経営者」という言葉を社員に当てはめるべきではないです。

さて。仮に私が、社員に「経営者意識を持て」と言うとするならば、

「君に次期経営者になって欲しい。今から、そういった意識を高めておくように。」

という後継者候補にのみに話すだろうと思います。
で、後継者候補になった社員については、「パートナー」と考えることが出来るだろうと思っています。

それ以外の社員は、「我が子」扱いです。
子供に自分と同じ重たい荷物を背負わせ、辛酸をなめさせ、責任も取らせるといった親は少数派なのではないでしょうか?
子供の成長に合わせた荷物や、大人になるために必要な苦労をさせることはあっても、自分と同等の負荷はかけようとは思わないはずです。
それと同じで、社員に対しても、社長と同じ負荷を強いるつもりはありません。

世間では、社長は椅子にふんぞり返って座っているだけの存在のように思われているかもしれませんが、一度、社長の職務を経験すれば、その心労の大きさに驚くだろうと思います。
(もちろん例外的に、ヌボーッとした社長もいることはいますが・・・)
特に零細企業になると、雑多な尻拭いに忙殺されてしまい、会社の未来をつくるという社長本来の業務に力を注げないことが多々あります。

そんな社長がついつい、社員に対して「経営者意識を持て」と言うんだろうな、と思います。
(私も忙殺組ですから、気持ちは良く分かります。)

異業種交流会で「経営者意識」とおっしゃる方々の話をよくよく聞いていくと、結局のところ、

社員には「会社の一員という自覚」を持って欲しい

という点に集約されているような気がします。

いわば「歯車」ですね。

昔から、「組織の歯車」になんてなりたくない、とか、「組織の歯車」にはなるな、という意見がありますが・・・
私は、逆かな? と思っています。

どんな機械でも、一個の歯車が壊れてしまえば、その周辺部分の機能不全を引き起こします。

家族でも、会社でも、社会でも、国家でも、同じです。
巨大な組織になるほど、局所的機能不全に気づきにくくなるだけで、壊れた歯車の周辺部は重大な問題に直面することになります。

社員には、与えられた職責を全うするとともに、その周辺の関連業務についても「他人事」として無視するのではなく、自分の業務に関連するもの、影響があるもの、として認識して欲しい。

そういう思いを持っている経営者の方々が、大半でした。

俯瞰して物事を見る

という視点の高さですね。
この視点の高さを表現するために、「経営者意識」とか「経営者の目線」という表現が使われているようです。

私としては、社員側には経営者との大きな溝があると思っています。

別に経営者側が社員と溝を作りたいのではなく、社員側が溝を作っているなと感じる部分があります。
これは、どこの会社に行っても感じることで、宿命みたいなものだろうと思っています。
ここの意識の差は、上述の「覚悟」の差から来るものなので、この溝は埋まらないです。
だから、私もこの部分を無理に埋めようとは考えていません。

社員に求めるとするならば、
・組織の歯車として、無くてはならない大切な歯車なのだと自覚すること
・同僚たちも同じで、無くてはならない大切な歯車なのだと理解すること
・歯車は連携し合うことで、大きな価値を生むことを理解すること
という意識改革です。

こういう意識が備わっている社員、備わっていない社員、色々といます。
備わっている社員は問題ないのですが、そうでない社員には何度も話して聞かせ、理解を促していくしかないです。
社員それぞれに癖があって、表現の仕方によって腑に落ちる、落ちないがありますので、なかかなに難しいのですけどね。

昔ながらの「組織の歯車にはなるな」式の志向を持っている人であれば、独立開業を奨めます。
会社員である限り、組織の歯車になることを求められるのですから。
そして、一匹狼として個人事業をしておけば、「組織の歯車」になることも、「組織の歯車」を生み出すこともなくなります。
そうやって、自己の信念を曲げず、個人事業をしておられる方は、たくさんいらっしゃいます。
それはそれで素晴らしいと思いますが、そんな方ですら、社会や国家の一員であるという大きな頸木から逃れることは出来ません。
国家としての概念がない場所へ行き、自給自足で一人で暮らすぐらいしか、歯車にならない生き方は出来ないと思います。

どうせ、社会の一員という頸木から抜け出せないのなら、社会にとってかけがえのない歯車になろうというのも、一つに生き方だと思います。
私自身は、こちらの考え方になるかもしれませんね。
会社を経営し、世の人のために役立つものづくりを目指しているわけですから。

実のところ、皆さん一人一人、社会の歯車として、立派に生きておられるんですよね。
そういう一人一人を社会から預かり、良い仕事をすることで恩返しする。
それが会社という場なんじゃないかな、と思います。

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