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環境問題 ~ 水俣病について

今回は、水俣病という公害について取り上げたいと思います。

水俣について
以前、「出水のツル」と日本の心についてお話しましたが、

その鹿児島県出水市から、僅か18kmほど北に行くと、熊本県水俣市があります。

水俣(みなまた)とは、水(み)の又(また)、つまり「川が二又に分かれたところ」を意味します。

水俣市の場所

この地方には、幕末の頃から海風という自然の力を利用した底引き網漁が盛んで、「海の貴婦人」ともいわれる「うたせ船」が、八代海(別名、不知火(しらぬい)海)のシンボルとなっています。

不知火海の貴婦人「うたせ船」《水俣病資料館》

水俣病とは
水俣病とは、この美しい海に面した化学工場から排出された有機水銀が原因で、汚染された海産物を食べた地域住民に水銀中毒が発生した公害病のことです。

戦後の高度経済成長期における四大公害病(注1) の一つで「公害の原点」ともいわれ、工業災害における犠牲者の多さでも知られています。

(注1) 水俣病、第二水俣病(新潟水俣病)、イタイイタイ病、四日市ぜんそくを言う

1908年、チッソ(注2) 水俣工場(以下「チッソ」)が創業すると、水俣は一大工業地帯へと発展。最盛期には、市税の大半をチッソが占めるようになりました。

(注2) 社名は、1950年まで「日本窒素肥料株式会社」、1965年まで「新日本窒素肥料株式会社」と称し、その後「チッソ株式会社」に改名。2011年から補償を行い「チッソ」と生産を行う「JNC株式会社」に分離し、現在に至る

1931年、チッソの研究員が水銀触媒を使ってアセトアルデヒドを製造する方法を発見。翌1932年から、チッソはこれを原料とした製品(ポリ袋、ビニール、衣服、肥料など)の製造を開始します。

しかし、チッソは、水銀を含む工業廃水を水俣湾に排出していました。

百間排水口(出展:西日本新聞

それから20年ほど経った1953年、水俣湾周辺で死んだ魚が浮いたり、鳥が地に落ち、猫が狂死する事例が急増します。

猫、鳥、魚から始まった《水俣病資料館》
(Photo by ISSA)

翌1954年、熊本日日新聞が「ネコ100余匹が次々と狂い死にした」と報じました(水俣病の初報)。

2年後の1956年5月1日、最初の患者が「原因不明の病気」として保健所に届けられました(後に、この1号患者となった田中実子さんに、写真家ユージン・スミス(後述)がフォーカスしている)。

1号患者の発生《水俣病資料館》
(Photo by ISSA)

そして、50人が発病し11人が死亡する事態になると、水俣保健所が公害病の発生を公表します(水俣病の公式公認)。

当初は、原因不明の奇病とされていましたが、やがて「水俣病」と呼ばれるようになりました。

同年、熊本大学医学部が調査研究に着手。それから約3年。1959年、熊本大学が「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」と発表しました。

排水は止まらなかった《水俣病資料館》
(Photo by ISSA)

これを受けて、チッソは水俣病被害者に、ほんの僅かな見舞金を支払いましたが、依然として責任を認めようとせず、排水も止めませんでした。

この年の10月、チッソは附属病院による猫を使った実験(いわゆる400号実験)により、有機水銀が原因で水俣病が発症することを認知したのですが、チッソはその後も(1973年に賠償金に合意するまでの15年にわたり)この事実を隠し続けたのです。

水俣病の被害と補償《水俣病資料館》
(Photo by ISSA)

国が認めるまで、更に時間を要しました。1968年になって、ようやく厚生省が水俣病を公害病と認定しました(1号患者の発生から12年、チッソの排水開始から36年が経過)。

水俣病発生の原理
チッソが水俣湾に流し続けたメチル水銀化合物を含む水銀の量は、1932~1972年の40年間で、80~150トンと言われ、25ppm以上の水銀を含むヘドロは151万立方メートル、厚さ4mに及びました。

苦海浄土《水俣病資料館》
(Photo by ISSA)

汚染されたプランクトンを食べたり、エラから取り込んだ魚を人間が食べることで、体内にメチル水銀が蓄積されます。

その結果、四肢末端の感覚障害、運動失調、視野狭窄、眼球運動障害、聴力障害、平衡機能障害などの症状が表れます。

後天性の場合、母親の胎内で蓄積され、脳性小児マヒに似た症状をもって胎児が生まれる事例も確認されています。

水俣病発生の原理

そのような中、1970年8月に、ある女性がアメリカの写真家、ユージン・スミスに、日本の大企業が海に垂れ流している工場廃水で病気になり命を落としている人々がいるので写真を撮って欲しい、と依頼します。

「ユージン・スミス」について
ウィリアム・ユージン・スミス
(William Eugene Smith)は、アメリカの写真家で、戦時中は従軍記者としてサイパン、沖縄、硫黄島などへ派遣されました。

26歳のとき、沖縄戦に従軍中、付近で迫撃弾が炸裂して全身を負傷。生涯、後遺症に悩まされたそうです。

ユージンに水俣行を促した女性は、後に妻となるアイリーン・美緒子・スミス(Aileen Mioko Smith)さんでした。

ユージンとアイリーンは、1971年9月から水俣を訪れ、以後3年間、水俣での写真撮影を行いました。

翌1972年1月、千葉県市原市五井にあったチッソ五井工場(現・JNC石油化学市原製造所)での抗議活動にユージンやアイリーン、報道陣も同行します。

映画「MINAMATA-ミナマタ-」より

このとき、チッソと抗議団の間で押し問答が発生し、チッソが約200人の従業員を投入して殴る蹴るの暴行を加えて実力排除に訴えたのです(五井事件)。

スミスはカメラを壊され、この時の暴行が原因で頭痛と視力低下に悩まされるようになりました。

その後、ユージンはアイリーンとの連名で、ライフ誌「入浴する智子と母」などを含むフォトエッセイを寄稿。この実態を世界に告発しました。

直後、チッソは非を認め、損害賠償に応じることにしました。ユージンとアイリーンの活動が、チッソを動かした瞬間でした。

映画のロケは、現地・水俣ではなく、セルビアの倉庫とモンテネグロのティヴァトという海沿いの街で行われました。

ジョニー・デップは、敬愛するユージンが水俣で撮った写真集に感銘を受け、自らプロデュース・主演して映画を製作したそうです。

アメリカの先住民は、写真は魂を奪うものだと恐れていた。だがそれだけじゃない。写真は、写真を撮る者の魂も奪っていく。つまり、写真家は無傷ではいられない。撮るからには本気で撮ってくれ。

映画「MINAMATA -ミナマタ-」より

これは、映画の中でユージンがアイリーンに語った言葉です。

前者の「魂」は言葉どおり「魂」のことですが、後者の「魂」は「感情」のことで、怒りや悲しみに打ち震えて感情に流されず、プロとして伝えるべきことに忠実になれということなのでしょう。

晩年は、後遺症による神経障害と視力低下でシャッターを切ることやピントを合わせることも難しくなり、1978年、59歳の若さで亡くなりました。

映画「MINAMATA-ミナマタ-」公式サイトより

戦時中、従軍先の日本で酷い目に遭い、水俣でも痛い思いをしたにも関わらず、日本を恨むことなく闘い続けられたのは、ユージンの写真家としてのプロ意識と、アイリーンさんという存在の賜物と言えるでしょう。

アイリーンさんは、今も環境保護活動を行っています。

水俣病資料館
1977~1990年、国・県は水俣湾工業防止事業を行い、1997年7月29日、熊本県知事が水俣湾の安全宣言を行いました。

同年10月から水俣市漁協は24年ぶりに水俣湾での操業を再開し、現在、水俣湾は県下でも有数の綺麗な海のひとつとなっています。

(Created by ISSA)

1977年から浚渫して埋め立てた場所が、現在のエコパークであり、その一角に1993年に開館した水俣病資料館があります。

近くに行くことがあれば、是非、訪れてみてください。

水俣病資料館
(Photo by ISSA)

被害者救済は終わっていない
2024年3月22日、水俣病被害者救済法で救済されなかったのは不当だとして、水俣病の被害を訴えている原告144人が損害賠償を求めている訴訟で、熊本地裁は原告全員の請求を棄却しました。

更に、1号患者から68年の節目となる5月1日、水俣病被害者団体と伊藤環境相との懇談で、環境省の職員によって団体側の発言が一方的に打ち切られ、環境省の対応が問題になりました。

そもそも、環境庁(現・環境省)は、水俣病への反省から創設された公的機関のはずですが、環境省は「自分たちは何故、何を為すためにここにいるのか」という初心や原点というものを、今一度、問い直す必要があると思います。
 
最高裁の判決で、水俣病の被害拡大を防げなかった国と県の責任が確定(注3) している以上、「被害者の声に真摯に耳を傾ける」という最も基本的な姿勢を蔑ろにしてはならないのです。

(注3) 国や県は、チッソの工場廃液の排出を止める規制権限を有していたにも関わらず、長きにわたりその規制権限を行使しなかった

さかなクンがギョギョギョ大使に
《水俣病資料館》
(Photo by ISSA)

おわりに
若い頃、旅行先のカナダでレンタカーを走らせていたとき、カナディアン・ロッキー自然公園の一角に車を止めて写真を撮っていたら、現地カナダの男性から " Why do you keep on driving your engine? " (何故、車のエンジンを止めないのか?)と注意されたことがありました。

Ice Field Park Way, CANADA
(Photo by ISSA)

その頃、日本では未だ「アイドリング・ストップ」という考え方は定着していなかったのですが、思えば、この時が環境問題に意識を向けるきっかけだったような気がします。

私たち人間は、生きている限り、大なり小なり、環境破壊に加担している。

先ずは、そのことを強く認識する必要があります。

そして、(国防も環境も、根っこは同じなのですが、)最大の問題点は「無関心が不安全を助長する」ということです。

一人一人が、「安全な暮らし」をどのように守り、後世に残していくかということを「具体的に」考え、実践しなければ、「持続可能な社会」の実現は難しいということです。

特に、コンビニやスーパーの駐車場で、車のエンジンをかけ放しにしたまま買い物したり、虚栄心を満たすために不必要に馬鹿でかい車を乗り回すような行為は、厳に控えるべきではないでしょうか。

暑さ対策には「かき氷」が有効です😊🍀