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私のMY STORYを読んでいただいているみなさま。
ありがとうございます♪

 Episode 2は、
雑貨ブランドを作った時のお話。

Episode1 私の原点編はこちら↓から


ゼロから雑貨ブランドを立ち上げ、
3年で16億円の売り上げに貢献をしてきました。

本当にがむしゃらに働いていた時代。

楽しいことも辛いこともたくさんありました。

私自身が自分の殻を打ち破ると決めたので、
本当は書きたくなかった辛かった過去の思い出も
赤裸々に書いています。

よろしければ、しばしお付き合いくださいね。


ゼロからの出発

大阪で初めて働いた会社は、
オリジナルのTシャツを作っている会社で
紹介していただいたデザイン会社が
Tシャツのデザインを手がけていたご縁で入社が決まった。

入社した当時は、アパレル1本の会社だったので
当時は、雑貨店の取引先もゼロだった。

社内の風当たりも強く、
先輩に最初に言われた一言は

「自分、何しに来たん?」

だった。

畑違いの人間が入って来たのだから、仕方ない。


Tシャツの単価と雑貨の単価があまりにも違いすぎ
なんで1本100円のペンを人件費使って出荷しなあかんねん。
自分で出荷しに来て。

と言われ、出荷をしに行ったこともあった。

はじめは二足のわらじだった。
デザイナーさんと一緒に商品を企画して、自分で営業に行く。
営業経験のある私は、どこに行けばいいのか。
という見当がついていた。

雑貨業界では、後発のメーカーになるので、
聞いたこともない会社に、最初は耳を傾けてくれるお店は少なかった。


そこで、どうやったら商品に関心を持ってくれるだろう。
と、デザイナーさんと一緒に考え、
他社がやっていないことをしよう!!
ということになった。


他と同じことはしない

どこの会社も、カタログにはそこまでお金をかけていなかった。
カラーコピーで印刷したものを渡していたり、
ホッチキス留めの小冊子で渡している会社がほとんどだった。

カタログは「コスト」だ。

という考えだったのかもしれない。


私たちは、カタログは
お客様への"最初のギフト"
と捉え
"捨てられないカタログ"
を作ることにした。


分厚いボール紙でオリジナルのバインダーを作り
そこにやや高級な紙でカタログを挟み込んだ。

まるで商品かと思うような仕上がりとなり
作っている私たちも本当にワクワクした瞬間だった。


当時、他社は1冊200円程度の予算で
カタログを作っていたところが多かったが、
私たちが作ったカタログは、
600円以上もかけた最初のギフトだった。


デザイナーさんの抜群のセンスと
快く予算を組んでくれた会社は本当にすごいと思った。


このカタログに変わってから快進撃が起こった!!

それまで営業に行っても、なかなか話を聞いてくれなかったお店も
とりあえずカタログだけ置いていきますね。
と名刺とカタログだけ置いて行くと、問い合わせが殺到し
あっという間に取引先が増えて行った。


雑貨屋さんにはTシャツを扱っているお店も多く
Tシャツも同じようなカタログを手渡すと
おしゃれなTシャツもあるんだね。
とTシャツもどんどん売れるようになって行った。


この頃から、ようやく社内でも認められるようになり
二足のわらじだった私は、企画1本に専念することになった。


大きなショーに出展する

私の上司は、専務だったが、良き理解者で、
仕事に関しては、信頼を置いてくれていた。

これから売り上げを伸ばして行くにはどうしたら良いか。
という打ち合わせで、
前の会社でも出展していたギフトショーに出ることを提案した。
日本で一番大きな見本市だったので、出展料も決して安くはなかった。

反対されるかと思いきや、上司は、
どうせ出すならでっかく出そう!!
と言ってくれ、
初めての出展にもかかわらず6ブースでの初出展が決まった。

ギフトショー出展を成功させるために、
いつも一緒に商品を作っているデザイン会社と
センス抜群の設計会社がタッグを組んでくれ、
初出展にも関わらずインパクトがあるブースとなり
会場で大きな話題を呼んだ。


間近で一流のデザインと一流の空間創りに触れた私は

見せ方で世界は変えられる!!

と確信した瞬間だった。



ギフトショー出展を機に、全国のお店や大手との取引が続々と決まり、
一気に風向きが変わった。

こうして、初出展のギフトショーは大成功することとなった。

以来、出展回数が増えるたびにブースのサイズもどんどんと大きくなり、
私が手がけた最後のギフトショーは
なんと12ブースも使った盛大なブースとなった。


甘え下手の負けず嫌い

雑貨に関しては、社内で私以外に経験者はいなかったため、
雑貨に関する仕事はすべて引き受けることとなった。

商品企画以外にも、雑貨の直営店を出店したり、
海外への見本市視察や買い付け、有名企業とのコラボ、
広報、ギフトショー出店、展示会企画など一手に引き受けていた。


正直、信じられないぐらい忙しかった。
けれど、負けず嫌いの私は、新しい仕事に対して
何事も挑戦する前から「できません」というのが嫌で
「できます」「やります」と言って一人で抱え込んでいった。


この頃は、本当に仕事以外の記憶がなく、
電車がある時間に家に帰ったこともほとんどなかったし、
土日も当たり前に出勤していた。


そんな日々が1年以上も続き、
さすがに一人でできる仕事量ではなくなってしまい、
アシスタントをつけて欲しい。と願い出た。


アシスタントじゃなかったのか

それまで、社内の企画部には常勤している私と、
アパレルブランドを担当している非常勤の同期の2人だけだった。

と言っても、彼女は月に何度か会社に顔を出す程度だったので、
ほぼ1人企画部。

この時点で、私が担当していたブランドは3つあった。


そんな中、新入社員が入ることになり、喜んだのもつかの間。
その人数に驚いた!!

なんと一気に10人もの新入社員が入ってきたのだ。
そのうち企画部には5名ほどが配属され、
それまで1人でやってきた私は戸惑いを隠しきれなかった。

上司に、なんで一気にこの人数を入れたのか?
と聞いた時、冗談混じりではあったが、

企画は感性が大事やから、そろそろ世代交代やろ

と言われた。
まもなく30歳を迎えようとしていた私には、
グサッと刺さった一言だった。


とはいえ、人が増えたのはありがたい。と思っていたのだが、
上司からは、
入社早々全員にブランドを作らせる。管理はお前がやれ。
という指示があり、仰天した。

アシスタントちゃうんかい!!


すでに、仕事MAXだった私には気持ちにゆとりが持てない状態だった。

入社時にブランドを作らせる。
という条件の元入ってきたようなので
なんとか1人をアシスタントに回してもらい、
一気に人が増えた企画部は、テンパる私を筆頭に商品を作ることになった。

気がつけば、9つのブランドを統括するマネージャーとなっていた。



感情がなくなっていった

年間でスケジュールが決まっていく中、
自分の担当ブランドだけでなく、
部下のサポートまで、まったく手が回っていなかった。

気持ちにゆとりが持てなかった私は
しっかりとサポートしたり面倒を見ることができず
部下との心の距離がどんどん広がっていった。


それぞれ自分のブランドの仕事が終われば
部下たちはみんな帰っていき
1人だった時よりも、いろんな意味でしんどいと感じていた。

部下ができたことで、相談できる相手はいなくなり
イライラが募っていた。

アシスタントについた子にも、
なんでできないの?
という口調になってしまい
新人同士の団結力はさらに強いものになっていったようだ。

そして、先輩としての私の良くない評判は
瞬く間に上司の耳に入った。

今思い返せば、いろんなプレッシャーに追われ
あのときは常にイライラしていたんだと思う。


ある時、事務の女の子が辞める事になった。

当然、送別会が行われる事になり、
昭和生まれの私は、参加するのが当たり前。
という感覚でいた。


私の上司はお酒が飲めない人で
不要な飲み会は参加しなくてもいい。
取引先とは飲みに行くな。
というスタンスの人だった。

社内では時より飲み会があり、
私は普通に出席していたが、
私の上司はほとんど参加したことがなかった。


そんな中、部下たちが送別会には参加しない。
と言っているのを耳にした。


えっ!!
自分たち歓迎会してもらって、
めっちゃお世話にもなった先輩じゃん!!
なんで参加しないの??


と強めの口調で部下に聞いていた。

「専務が出なくてもいいと言ったので・・・」

という言葉に、カチンときて

企画部は強制で参加です!!

と言ってしまった。


お世話になった人を送り出せないなんて
ありえない!!

当時の私は、そんな気持ちだった。



そして、その週の会議で事件は起きた。

会議が始まって早々、上司から

松本、立て!!

と言われ、10名ほどいる部下の前に立たされた。

お前、送別会強制参加って言ったらしいな。

全員の前で今すぐ謝れ!!


と言われた。


完全な見せしめだった。

その場で全員に謝罪し、送別会は強制いたしません。
と約束をした。



人生で一番屈辱的な日だった。

これ以降、私は人前で話すことが怖くなり
異常なほどのあがり症になってしまった。

もちろん、全ては自分が蒔いた種で、
悪いのは100%私なので自業自得だ。


この後、もちろん部下からの信頼は完全になくなり
何を伝えても、できません。やれません。
という反応になってしまった。

結果、またすべてを抱え込む仕事スタイルに戻って行った。


多忙だった私は、さらに多忙となり、
嬉しいとか、悲しい。という
感情がなくなっていった。

企画部の中でも孤立をして行った。

それまで普通に見えていた景色も
全てが灰色がかって見え、
仕事が終わり、夜中の2時、3時に家に着くと
疲れているはずなのに眠れず
悲しくもないのに涙が止まらないのだ。

そして朝が来てまた会社に向かう。

会社に行って、山積みの仕事をロボットのようにこなす。

そんな日々を過ごしていた。


そんな私とは対照的に、
ブランドが増えた効果もあり
会社の売り上げは右肩上がりだった。


大きな決断

何をしていても楽しいとも感じられず
何を食べても、美味しいとかも分からなかった。


自分の精神状態も安定せず、
ほとんど家に帰ることもない。
ずーっと先まで詰まっているスケジュール。

・・・私はこの会社で仕事をするために生まれて来たのか。

と思うようになって行った。


こんな精神状態で、
誰とも笑顔で話すことができなくなっていた。


こんな私が人を幸せにできる商品なんて作れない。


本当は今すぐ辞めたい!!
消えてしまいたい!!

ずっとそんなことを考えていた。


けれど、自分の中で葛藤があった。
今投げ出したら、いろんな人に迷惑がかかる。

何より、ここを紹介してくれたデザイナーさんの顔を潰すわけにいかない。
途中でこの会社に巻き込んだ雑貨経験者の友人もいたので
彼女にも申し訳ないと思っていた。


その気持ちだけで、ギリギリの精神状態の中で仕事を続けていた。

けれど、もう、本当に限界だった。

ある時、意を決して、上司に辞めたい。
と打ち明けた。


上司の答えはNO!!だった。

お前が辞めれるわけないやろ。

と言われ、今の限界の状況を説明し、
ならば。自宅勤務でいい。
ということで、またいつも通りの仕事に戻って行った。

ただ、自宅勤務とは言っても、
打ち合わせは会社に行っていたので
実質そこまで大きな変化はなかった。


そんな生活が半年ほど続いたけれど、
一度折れた心はなかなか元に戻らなかった。


やっぱり無理だ。
このまま続けていたら死にたくなる。

そう思って、退職届を書いた。


次の日、上司に何も言わず手渡した。

突っぱねられるかと思ったが
今回は受理をしてくれた。


こうして、わずか3年ちょっとだったはずの
この会社での時間は幕を閉じたが
私には10年にも感じる長い長い時間だった。


20代後半からお世話になって、
大きなプロジェクトを任せていただいたり
たくさんの経験を積ませていただいたからこそ
今の私があると思っている。


確かに辛い時期もあったけれど、
重要な仕事をたくさん任せていただけたのも
大手に行っていたら経験ができなかったこと。
今では感謝しかない。

仕事人として育てていただいたのは
紛れもなくこの会社だ。

自分で作った商品が世の中に流通するというのは
なかなかできる経験ではない。

そんな大きなお仕事を任せていただき
本当に心からの感謝と敬意を伝えたい。


次回 Episode 3は、学びと独立編。
独立後も決して順風満帆だった訳ではない私のストーリー。

次回もお付き合いいただけたら嬉しいです♪

Episode3 はこちら↓


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