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俺があいつで、あいつが関取で

「待たんかー!」
 東京の下町を全速力で走る。閑静な住宅街にあいつの怒声がこだまする。肩越しに振り返る。舌打ちが出る。鬼のような形相がどんどん近づいてくる。
 逃亡資金が底をつきかけ、行き当たりばったりで空き巣に入ったのがまずかった。俺がこの町に潜伏している情報をどこで嗅ぎ付けたのか。金目のものが見つからず、勝手口のフェンスから路地へ飛び降りたところを巡回中のあいつに見つかった。警察の裏をかいて都内に移動したが、まったく功を成さなかった。
 完璧だと思っていた罪が露見し、指名手配されて三年。この逃亡劇は、まさに全国を縦断する旅だった。札幌へ北上したことも、石垣島へ南下したこともある。そのたびに名前を変え、身分を偽り、村のNPCに成りすましたがあいつはどんな場所でもバグみたいにエンカウントした。五十歳を過ぎたベテラン刑事だというのに、あのバイタリティはどこから出てくるのか。まるでルパンに焦がれる銭形のように執拗に追いかけてくる。これまで一度も捕まらなかったのは奇跡といえる。
 思えば、逃亡生活は奇跡の連続だった。
 すすきのの大通りでカーチェイスを繰り広げたときは、あいつの乗っていたクラウンだけがスリップしてなんとか逃げ切れた。石垣島の海をモータボートで並走していたときは、山のような高波が押し寄せ、あいつだけが飲み込まれた。
(はあッ……、はあッ……)
 しかし、今回ばかりは年貢の納め時か。かつお節みたいに靴底が擦り減っているのに、何も起こらない。あいつだけが自動車に撥ねられることも、マンホールの蓋が外れて真っ逆さまに落ちることもない。
 息が、苦しい。あいつより一回り以上若いのに、こちらが先に白旗を上げそうだ。昭和生まれの根性は常軌を逸している。
 大仰な看板を掲げた相撲部屋の前を駆け抜ける。関取が中から出てきてあいつをうっちゃる気配はない。カーブミラーを見る。いまにも手が届きそうなくらいに距離を詰められている。
(うわっ!)
 ついに、幸運の女神も中指を突き立てたか。
 三叉路を左に旋回したところで、目の前を巨大な壁が立ちふさがる。顔面から突っ込み、鼻に激痛が走る。ダンプカーに押されたような重みを感じる。尻もちを付きかけたが、ほぼ同時に壁が手を差し伸べてくる。腰に手が回る。 
「ごっつあんです」
 壁だと思っていたものは、肉の塊だった。ちゃんこの買い出しだろうか。関取は、右手にスーパーの袋をぶら下げたまま、左手だけで俺をひょいと抱きかかえた。
「バカッ、はなせ!」
 いきなり馬鹿と言われてムッとしたのか。肉の締め付けがかえって強くなる。じたばたと腕の中で暴れるが俺の力ではびくともしない。
 ならば、どうするか。頭を冷やして考える。平成生まれの俺はどんなときでも心にゆとりがある。
 かんたんな話だ。一人で太刀打ちできないなら、二人で立ち向かえばよい。三叉路の中心は俺が走ってきた道からは死角になっている。つまり、俺を後押ししてくれるはずだ。背中に意識を集中する。

 ――ドン!

 計算どおり、あいつが後ろから突っ込んでくる。その衝突にタイミングを合わせ、関取の体をめいっぱい押した。しょせんは、ちゃんこのおつかいを頼まれるような若者。二人分の体重よりは軽く、押し倒しに成功する。
 バランスを崩した三人は地面に転げ、関取から解放される。あいつは突然の玉突き事故に面食らっている。その一瞬の隙をついて来た道を戻り、手近な路地に入り込んで姿をくらませる、というのが絵に描いた餅だった。

 ――ガチン!

 骨の振動音が炸裂する。目の奥で火花が弾ける。
 肉壁を押し倒したとたん、頭を石で殴られた――いや、あいつの石頭が後頭部を直撃したのだろう。あまりの衝撃に首を支えることができなくなる。俺の頭が加速する。

 ――ガチン!

 ビリヤードの原理を体で知る。
 俺のヘッドバッドが、関取の額に直撃する。思いもよらぬ頭突きの連鎖に前頭葉がシェイクされる。痛みを感じる間もなく、意識が、飛ぶ。

 一秒なのか、一分なのか。気を失ってからどれほどの時間が経ったのかは分からない。アスファルトに手をついて、立ち上がることはできる。意識もはっきりしている。しかし、自分が生きているのか、死んでいるのかさえ判断できなかった。頭部に受けたダメージが原因で肉体から魂が抜けたのだろうと想像はできた。目の前に、俺が立っていた。
 俺――いや、オレの姿をした奴は、呆けた顔で関取を見下ろしている。やがて、関取も目を覚まし、そばでたたずむオレに気付く。親の仇を見つけたように関取が飛びかかる。
「ごっつあんです!」
 関取ではなく、オレの口から大相撲の隠語が聞こえる。関取はオレの首根っこをつかんだまま、もう片方の手で自分の腰をまさぐる。あるはずの物がそこにはなかったのか、きょろきょろと辺りを見渡し、大捕り物を眺めている俺と目が合う。
 上空を飛行機が通過する。廃品回収車の気だるそうなアナウンスが聞こえる。首輪をした猫がツンとした顔で塀の上を闊歩する。
 いまも、世界は動いている。しかし、三叉路の角だけ時間が止まったかのような静寂に包まれる。
 関取はじっと俺の顔を見ている。時間が経つにつれて、その目は徐々に焦点を失っていく。沈黙に耐えられなくなった俺は口角をニッと上げてみる。その笑顔が合図になったかのように、関取は白目を向いてバタンと倒れた。
 だんだんと、察しがついてくる。異世界へ転生するエンタメに慣れた世代であれば、少しくらいの不思議があっても気を失わないはずだ。
「ごっつあんッ」
 オレも鼻で笑っている。ここでは、関取だけがフィクションに慣れていない石頭だということが分かる。
 曲がり角まで歩いて、カーブミラーを見上げる。
 思ったとおり、そこには灰色のくたびれたスーツを着たあいつが映っている。どういう原理かは知る由もないが、三叉路でぶつかった衝撃で、三人の人格が入れ替わったとしか考えられなかった。つまり、俺があいつで、あいつが関取になったのだ。

「お疲れさまでした!」
 署内のオフィスで、課長から花束を受け取る。四方八方から拍手が湧き、鼻の奥がツーンとする。課内だけでなく、別の階の人間も顔を出して、俺の定年退職を祝ってくれた。
 長年、面倒をみてきた後輩が駆け寄り、固い握手を交わす。「ありがとな」と声をかけると、後輩は子供のようにむせび泣いた。背中をバンバンと叩きながら彼のうぶな反応を冷やかしたが、何かを喋っていないと俺も涙をこらえるのが難しかった。
 三人の人格が入れ替わって、十年が過ぎた。
 俺はあいつの人生を引き継ぎ、刑事としてまっとうに勤め上げた。物心ついたころから悪の道を走ってきた半生からは、百八十度、反転した。逃亡生活に疲れ果てたころから、別人に生まれ変わり、おだやかに暮らすことを切望した。その願いが、自分をずっと追いつめてきたあいつの人生に着地するのは皮肉だったが、おかげでこの十年間は幸福に満ちていた。三年前には知人の紹介で伴侶に恵まれ、家庭をもつこともできた。あいつには妻も、子供もいなかったので、俺の正体に気付く者は一人もいなかった。
 警察署を出ると、花束を手にしたまま大通りへ走った。日はすっかり暮れている。間に合うだろうか。運よく交差点で信号待ちをしているタクシーがいたので一目散に乗り込んだ。
「両国まで」
 国技館では大相撲の十三日目が行われている。チケットは持っているが、ここからどんなに飛ばしても二十分はかかる。
「すいません。ちょっと音出しますね」
 スマホを開いて、大相撲の中継サイトに繋ぐ。とたん、スピーカーが爆発するほどの熱狂に飛び上がりそうになる。場内を渦巻く大歓声。空中を乱舞する座布団の群れ。
「ああ、優勝決まったんですか」運転手がのんびりした声で言う。「ひさびさの、横綱誕生ですねえ」
 あいつの番付は、いまや大関。今日の勝利であいつの二場所連続優勝が決まった。横綱への昇進は、確実、だった。
「お客さん、よっぽどファンなんですね」
 バックミラーを見て運転手が笑う。鏡には、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった俺の顔が映っている。
「ええ、ちょっと、いろいろありまして……」
 事情を知らぬ者には説明しようのない感情にあふれる。十年という歳月の捉え方は人それぞれだろうが、あいつにとっては長く、険しい道のりだったにちがいない。そもそも、あいつが人格転移を受け入れるまでに一年はかかっただろうか。
「あんた、関取の気持ち考えたことあんのか!」
 酒におぼれるあいつを見かねて、大声を出したこともあった。
「俺は、あなたの人生をきちんと引き継ぎます。信じられないかもしれませんが、いまは刑事として真面目に働いています。そうすることが、自分の責務だと思っているからです。
 俺たちは生まれ変わったんです。あなたは、関取です。だから、あなたも、関取の、これまでの人生を無駄にしないでください。関取は、あの若さで十両になったんですよ。将来を期待された力士だったはずだ。それなのに、あなたのせいで番付は下がる一方。もったいないとは思いませんか。申し訳ないとは思いませんか。
 横綱になれとはいいません。でも、どうか、横綱になる夢は持ち続けてください。夢を叶える努力をしてください。バトンを受け取ったら、知らない道でも全力で走る。それが、他人と体が入れかわった俺たちの運命じゃないですか」
 一切の打算のない、正直な言葉をぶつけた。あの日が、ターニングポイントだったろうか。翌日から、あいつは稽古場に顔を見せるようになったという。勝負の世界は決して甘くなかったが、俺を必死に追いかけていた、あのころの執念は角界でも通用したのだ。あいつが、とうとう、横綱になるんだ……。
 国技館に到着し、後部座席のドアが開く。取り組みは終わってしまったが、直接、あいつに祝いの言葉を伝えたい。あいつの後援者として、関係者とは顔が通じている。控室は記者でごった返しているかもしれないが、一言くらい話す時間はあるだろう。
「お客さん、着きましたよ」
 俺がなかなか降りないので、運転手が怪訝そうな顔をする。歓喜の余韻にひたっていたわけではない。そういえば、と思うところがあり、なかなか動けずにいた。
 そういえば、関取に、このニュースは届いているだろうか。
 平日の夕方なのでまだテレビは見ていないと思う。タイミングが合わなければ、このビッグニュースを知るのは明日になるかもしれない。
 関取とは何年も顔を合わせていないので、どういう受け止め方をするかは分からない。でも、彼の夢の続きをあいつが叶えたのだ。関取の顔と、名前が、力士の最高位に刻まれたのだ。嬉しくないはずがない。その喜びを、俺たちしか知らぬ秘密を共有する同士として語り合いたかった。
「すいません」
 俺は、関取に会いにいく決心をした。
 行先を告げると、運転手はぎょっとした顔で振り返ったが、俺が無言でうなずくのを見て何らかの事情を察したように車を郊外へ走らせる。関取は、過去に犯した俺の罪のせいでいまも刑務所にいる。


補足

元ネタの140字小説は、以下。https://note.com/ms_ogawara/n/n845e24af5492#Xkdt6


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