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白い嘘

 診察室に入ってきた女の顔を一瞥する。これは、と思い、椅子に座り直す。問診票には、夫を正気に戻す方法について相談したいと書かれているが、女の目は焦点を失っており、表情もうつろだった。彼女の方もだいぶ心労が溜まっているのだろう。旦那の症状はかなり悪いとみえる。
 私はかんたんに自己紹介をすませ、早々に話をうながした。
「最近、夫の様子がおかしいんです」
 ん、と思う。
「一か月、くらい前でしょうか。夫が正午過ぎに会社から帰宅したんです。私は、体調でも悪いのかと心配したんですが、夫は玄関でいきなり大声をはり上げたんです。お前、浮気してるだろって。あまりに突拍子もない言いがかりに私はぽかんとして言葉が出てきませんでしたが、夫はその反応をよくない方に捉えたのか、靴を履いたまま部屋中を駆け回りました。浮気相手が家にいると勘違いしたらしく、どこに隠れてやがる、とクローゼットの中身をすべて放り投げたり、ソファや、ベッドまでひっくり返す大騒ぎでした」
 抑揚のない声でぼそぼそと語る。
「もちろん、家には誰もいませんし、私が強く否定することで、その日はなんとか収まりました。でも、私が浮気をしている思い込みは消えなくて、日に日に強くなる一方でした。美容院でいつも通りに髪を切っただけで、そんな髪型、俺は見たことないぞ、男の趣味に染まりやがってって、その、乱暴するし、仕事から帰ってきたとたん、かけ布団の形が朝とちがう、また男を連れ込んだのかって、激昂して、手を上げることも増えました」
 やはり、そうだ。疑念が確信に変わる。
 夫の症状は、自分の配偶者が不貞を働いていると確信してしまう妄想性障害のありがちなエピソードだ。その内容におかしな点はないが、精神科医として二十年も務めていれば、声や仕草から相手が本当のことを言っているのかどうかが直感的に分かる。
 この女は、嘘をついている。
「それで、当院へお越しになったというわけですね」
 しかし、具体的な嘘の内容までは分からない。
 夫の様子はおかしくないのか、そもそも、夫なんていないのか――いずれにしろ、何かのっぴきならない事情があるのは間違いない。
「はい。私、もう、我慢できなくて……」
 女は首をカクン、と折り曲げて、深いため息をついた。
「うふっ」
 肩が上下する。
「うふふふふふふ」
 軍隊の行進のように両手を前後に振りながら、突然、笑い出す。
「ごめんなさい。うふ。その。ふふふ。おかしいですよね。私、浮気なんてしてないんですよ。それなのに、夫ったら、いつまで経ってもいるはずのない男に嫉妬してるんです。だんだん、それが、我慢できなくなっちゃって。先生は、お笑いとか……、あっ、見ます。よかった。ならわかると思うんですけど、憑依型の芸人っているじゃないですか。自分とはまったく違うキャラクターになり切って、漫才やコントをする愉快な人です。ほんと、人が変わったように妄言をくり返す夫の身ぶり、手ぶりが、だんだん、それに見えてきて。どこだ、どこに隠れてやがるーッ、て叫ぶたびに、えふっ、笑いをこらえるのが難しくなってきました。素人なのに、すごいですよね。夫は、妻に浮気されて怒り狂う男を完璧に演じているんです」
 カルテにペンを走らせる。
「なんだ、彼はコントをしてるんだって気付いたら、どんよりしていた気持ちが一気に晴れました。でも、そうだと分かると、夫が泣きながら地団駄を踏んでいる姿とか、げふっ、我慢できなくて、つい、こらえきれなくて吹き出すと、何を笑ってるんだッ、て思いっきり頭を殴るんです。そこで、私はさらに勘違いに気付いたんです。そうか、自分は観客じゃなくて、演者なのかって。だって、そうでしょう。舞台を楽しんでいる客を殴る芸人なんていないじゃないですか。だから、自分も、彼と同じ板の上に立っていることを理解したんです。そして、真剣に考えたんです。夫は、私に何を求めてるんだろうって。彼の振舞いって、ようするにボケじゃないですか?」
 同意を求められたようなのでうなずく。女の両手の動きがどんどん速くなる。
「そうですよね。だから、私の対応も間違ってはないと思うんです。浮気しただろッてボケにそんなわけないでしょっていうツッコミは成立しているじゃないですか。でも、延々とこのくだりを続けるってことは、ほんと、そういうところが愛おしいんですけど、理由は一つしかないじゃないですか。彼、オチが浮かんでないんですよ!」
 女は椅子から立ち上がり、病室をぐるぐると歩きはじめた。
「ごめんなさい。この話をするとき、もうおかしくって、動いてないと、正気を保ってられないんです。ねえ! 先生も、合点がいったでしょ。そうなんです。これで、すべての説明がつくんです。おっ、夫は、見切り発車で、私にコントをしかけたんです。だから、ボケだけがどんどんエスカレートして、シュッ、収拾がつかなくなっちゃったんです。だから、夫は私にこのコントの結末を丸投げしてるんです。だから、そう、彼らしいといえば、そういう無計画なところが彼らしいんですけど、バ、バカみたいじゃないですか。うふっ、うふふふふ……」
 タガが外れたように、女が地面をのたうち回る。カルテをめくりながら、ううむ、と唸る。いったいどういうことだろう。
 目の前の女は、狂ったふりをしている。
「だとすると、はた迷惑な話ですねえ」
 紙コップに水を注ぎ、けらけらと笑い転げる女に差し出してみる。彼女は私の手を払いのけ、床にこぼれた水たまりの上をごろごろと転がる。うつ伏せとあお向けをくり返すうちにスカートの裾がめくれ、いまや下半身が露になっている。一見すれば、理にかなった動きのようだったが、彼女が紙コップを見てわずかに逡巡――どのように対応すべきかを計算する間があったのを見逃さなかった。
 ときどき、診断書目当てでうつ病を装う患者はいる。その多くは、会社をてっとり早く休みたいという安易な動機だが、彼女のように大立ち回りをするケースは記憶にない。
「それで、奥さんはオチを思いついたんですか?」
 ここで診察を打ち切るべきか迷ったが、相手の目的が分からぬまま追い返すのも気持ち悪い。わざわざ、心療内科を訪れて妄想に取り憑かれた人を演じる。その心理的背景を探るため、話を進めた。
「ええ、そうです、そうです」女はようやく立ち上がり、丸椅子にちょこんと座った。「といっても、所詮は素人ですからね。独創的な展開をゼロから考えるのは難しいので、いろんなDVDを借りて勉強したんです。で、分かりやすいのがいいかなあと思って、ドリフなんかでよくあったパターンを真似るつもりです」
「タライ落とし、ですか」
 察しのいい子供を喜ぶ教師のように女は目を細めた。
「さすが、先生。リアルタイムで見てましたか」
「ええ、まあ、世代ですから」
「うふふ。ものすごくベタですけど、これで夫も満足すると思うんです。彼は意識が高いので弱音なんて吐きませんが、さすがにロングランが一か月以上も続いて疲れてるみたいです。あいにく、家にタライはないので他の物で代用しますけど、頭に何かを落とせばオチだって分かるじゃないですか。ガーンってなって、ちゃんちゃん、です。夫が床にコケながら爆笑する姿が目に浮かびます。で、昨日、この話を友達にしたら、こちらの病院を紹介されたんです。もっと、いい解決方法があるから、お医者さんに相談したほうがいいって。私は、こんな夫婦問のいざこざでッて笑ったんですが、友達があんまり真剣な顔をするし、たしかに、夫も意地になってる部分があるでしょうから、メンタルに精通してらっしゃる方の意見を聞いた方が確実かなって、お伺いしたんです。なんだか、前置きが長くなっちゃってすみません。先生は、夫を正気に戻すためにもっといいオチがあると思いますか?」
 私は背もたれに体を預け、天井を見上げた。上空にタライが仕込まれているかどうかを気にしたわけではない。バカバカしくなって、肩の力が抜けただけだ。
「用意したらどうですか」あえて、女が嫌がるであろう提案をしてみる。「代わりに何を使うかは知りませんが、タライでやった方が分かりやすいですよ。下町の金物屋に行けば置いているでしょうし、ネットでも売ってますよ」
 案の定、女は生意気な生徒を煙たがる顔つきに変わった。
「そうですね。ええ、そっちのほうがいいとは思います。ありがとうございます。参考にさせていただきます」
「まあ、無理にとは言いませんよ。女性の力で、タライで人を殺すのは難しいでしょうから」
 私の皮肉に、女がきょとんとした顔をする。まだ、しらばっくれるつもりなのか。だんだんと腹が立ってきた。
「もう、やめませんか」
「えっ。あ、やっぱり、タライはやめたほうがいいんですか」
 鼻から大きく息を吸う。
「いちおう、確認しますけど、まだ手遅れではないんですよね」
「手遅れって。あの、さっきから、おっしゃってる意味が……」
 机を手のひらで叩き、女を黙らせる。
「質問に答えてください! 旦那はまだ生きているのかって聞いてるんです」
 女の顔が固まる。大声に驚いたのではなく、私の指摘が図星だったからだろう。一秒、二秒、沈黙が続く。
「旦那さんは、生きていますね?」
 同じ問いを浴びせると、女は観念したようにうつむいた。仮面が剝がれ落ちる音がした。
「はい……」
 蚊の鳴くような声にほっとする。嘘はついていなかった。
「いままでの話は、すべて作り話ですね?」
 首が力なく折れる。ため息が出る。
「あなたの計画殺人に、私を巻き込まないでください」彼女の企みがいかに無謀かを説明する。「精神に異常があるふりをしながら、夫の頭を殴ることを嬉々として語る。タライのかわりに、もっと頑丈な鈍器を使うつもりなのであれば、いわば殺人の予告です。殺人予告が、犯人の口から直接、語られるなんて聞いたことはありませんが、そもそも、あなたに犯行を隠すつもりがないのであれば説明がつきます。目的は、逮捕後に無罪をかすめ取ることですね。犯行当時のあなたは心神喪失状態であったと、私に証言させることで。
 ご友人に当院を紹介されたそうですが、まあ、それは本当でしょう。あなたが精神を患っており、旦那さんの頭を鈍器で殴った背景を語れる者は多いにこしたことはありません。その方が、裁判で有利にはたらくでしょう。だから、あなたは友人の証言だけでは心許ないと判断し、医師の裏付けを得るためにここへ来た。そして、私を証言者に仕立て上げようとした。
 私が思惑に気付かなかったら、旦那さんを殴り殺すつもりだったんですか。もちろん、タライで撲殺するのは難しいでしょうから、わざわざタライを使わなかった理由まで話したんですね。ちょっと、説明しすぎましたかね。あなたが他の物で代用すると言ったとき、とても噓くさかったですよ。まあ、いずれにせよ、あなたが演技をしていることは明らかだったので、あなたにとって都合のいい証言をすることはありえません」
 女はうんとも、すんとも言わない。肩を丸め、じっと足元に目を落としている。照明の加減かもしれないが、部屋に入ってきたときよりどっと疲れてみえた。
「医者の目は節穴ではありません。専門医が診れば、あなたが嘘をついていることはすぐに分かります」相手を刺激せぬよう、できるだけ穏やかに言う。「こんなことを実践してしまうくらい、あなたも追いつめられていたんでしょう。いったい、何があったんですか。ゆっくりで構いませんから、ぜひ話をきかせてください」
 ここから本当の診察が始まるのだと頭を切り替えた。しかし、女は私の問診に応じなかった。
「あの、このことは、警察には……」
「もちろん、言いませんよ。あなたは、まだ何もしていない」念のため、釘を刺す。「ただ、もしものときは、あなたに刑事責任能力があることをはっきりと証言します。よろしいですね」
 女は椅子から腰をあげ、ワゴンに乗せていたバッグを掴んだ。
「はい。ほんと、私、どうかしていたようです。先生の話をきいて、完全に目が覚めました。お時間を取らせて申し訳ありませんでした」
 あっ、と私が声をかける間もなく、女はそそくさと部屋を出てしまう。まったく、面倒な患者だ。内線をかけて、事務員に女を引き留めるように言う。少しだけ迷ったが、警察にも連絡する。彼女を騙す形にはなるがこればかりは仕方ない。
 女は、最後まで嘘をついた。

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