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アウシュヴィッツの遺体処理(1):チフス神話

この翻訳シリーズは、PHDNサイトで紹介されている「アウシュヴィッツの遺体処理」をテーマとした否定説を反論する記事の翻訳紹介です。元々は2011年に亡くなった反修正主義者のハリー・W・マザールが運営していたTHHP(ホロコースト歴史プロジェクト)に掲載されていたそうです。執筆者はこれも2000年ごろ当時は著名だった反修正主義者のジマーマン博士です。

修正主義者の言い分は簡単に示すとこうです。

  • アウシュヴィッツの火葬場には100万体もの犠牲者を火葬する能力はなかった。

このように主張することにより、アウシュヴィッツでの大量遺体処理能力を否定し、犠牲者がそんなに出たはずがないとして、間接的にガス室を否定しようとする企みでもあります。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所にはトータルで52炉もの火葬炉があり、一見して過剰なほどの火葬炉があることがわかります。例えばここでは仮に、本当に適当に一炉あたり1日で100体の犠牲者数を処理できたと仮定し、本当に適当に仮定として500日間稼働したと仮定します。すると、

52炉×100体×500日=260万体

現在推定値として認められているアウシュヴィッツの犠牲者数である110万人の2倍以上に達してしまいます。実はこの数字、あながち全くの的外れではありません。以降の記事中で紹介する通り、当時のアウシュヴィッツ親衛隊建設部では、日あたり4756体の処理能力をベルリンの経済行政管理本部に書簡で送って伝えていたのです。

しかし、否定派が主張する通り、常識的な人間用の火葬場をモデルとして考えると、1日1炉あたり100体は、あまりにも過剰過ぎる火葬能力でもあります。日本は世界一の火葬大国ですので、火葬炉の火葬能力はググるだけで一瞬でわかります。こちらによると、

火葬は40分から1時間半ほどかかります。

とあります。つまり一体につき約1時間程度であり、連続で稼働させたとしても、100体の1/4程度でしかありませんから、上の簡易計算で言えば日本の現代の火葬場の能力を用いると約50万体に低下します。これではアウシュヴィッツの火葬能力は犠牲者数に全く足りていません。そこで、あまり知識のない素人的反修正主義者はこう言いたくなります。

「ナチスの火葬場はナチスの科学力を結集したものであり、極めて高能力だったのである! 当時のナチスが世界最高の科学技術力を持っていたことはV1ロケットなどでよく知られている事実じゃないか!」

みたいに。ええと、アウシュビッツなどのナチスの収容所にあった火葬炉は民間メーカーの開発したものなので、ナチスの科学力に含まれるかどうかは別ですが、特殊ではありますが、科学力の結集?と言われると、それはどうかなーとしか思えません。

アウシュビッツ主収容所にある火葬場1の火葬炉(戦後の再建)

ちなみに、世界最高の火葬炉技術を持つと考えられる現代の日本の最先端火葬炉はこんな感じです。

https://goshikidai.jp/institution/kasou.html

こんな感じの最先端火葬炉で現代でも約1時間かかる遺体の火葬処理が、アウシュヴィッツの火葬炉では単純に一体あたり15分程度しかかからなかったなんて、俄に信じられるわけがありません。

ただし、現代の日本の最先端火葬炉に用いられている最先端技術がどの部分で特化しているかを考えると、実際には「遺体処理の速さ」に向いているわけではないので、以上のような素人談義的な比較は誤りではあります。

とまれ、たかが火葬場されど火葬場、論点は意外にもたくさんあります。まずは翻訳記事を読んで参りましょう。記事は長いので、項目ごとに分割しています。

▼翻訳開始▼

アウシュビッツの死体処理
ホロコースト否定の終焉

(1)チフス神話
(2)
火葬場の起源、火葬場の必要性
(3)
キャンプの拡大、オーブンの耐久性
(4)
火葬炉の能力
(5)
燃料消費量
(6)
記録の不在、野外火葬:1942年と1943年
(7)
野外焼却と写真:1944年
(8)
ジョン・ボールの写真、結論、謝辞

ジョン・C・ジマーマン著
准教授
ネバダ大学ラスベガス校

スティグ・ホーンショイ・メラーとチャック・フェリーの思い出のために。

おそらく、ホロコースト否定の中で、アウシュビッツの死体処理問題ほど広く論争されているものはないだろう。ホロコースト否定派は、収容所で殺された110万人を処分することは不可能だったと主張する[1]。したがって、これだけの人数はアウシュビッツで殺されていないと主張するのである。否定派がこの問題に注目する理由は、ある意味で理解できる。否定派は、第二次世界大戦後に行方不明になった500万から600万人のユダヤ人に何が起こったのかを説明することができない。彼らの主張を実現する最も簡単な方法は、行方不明者に何が起こったかを示すことだろう。しかし、いくつかの失敗した例外を除いて[2]、否定派は当然のことながらこの問題について沈黙を守っている。

否定派は長年、アウシュビッツでガス室が使われることはありえないというのが主張の中心だった。その「専門家」とは、フランス文学教授のロベール・フォーリソンである。彼は、1970年代後半から1980年代前半にかけて、この分野でいくつもの主張を行っていた[3]。ガス室に関する彼の考えは、アメリカの死刑コンサルタント、フレッド・ロイヒターという人の報告書に取り入れられた。別のところで紹介するように、ロイヒターの報告書は、彼がアウシュヴィッツのガス室についてほとんど何も知らなかったことを証明している。この報告書は、数多くの技術的な誤りに満ちている[4]。むしろ、すべての情報をフォーリソンに頼っていたのだ。ロイヒターによると、彼はアウシュヴィッツに行く前にフォーリソンと会い、彼から調査のための情報を得たという[5]。実際、フォーリソンはロイヒター・レポートの前書きを書いている[6]。

否定派は、ロイヒターの誤った報告やアウシュビッツに対する無知を利用しようとしたのである。多くの人はロイヒターの信頼性に異議を唱えるほど、これらの問題に関する技術的な専門知識を持っていないからこそ、このようなことができるのである。しかし、1994年にポーランドのクラクフにある法医学研究所(日本語訳)が、多くの目撃者によって殺人ガス室と確認された構造物の包括的な調査を行った。研究所が検査した6つの構造物から、微量の青酸が検出された。これらは、5つの火葬場と処刑ブロックの跡であった。否定派にとって最も気になるのは、研究所が検査した第二火葬場からのサンプルに、最も高濃度の毒ガスを検出したことである。その7つのサンプルのうち6つがポジティブとなった[7]。これに対してロイヒターは、この構造物からは青酸を発見できなかったと主張している[8]。これは、ロイヒターがよく言えば無能、悪く言えば不誠実な人物であることを証明するものであった。火葬場IIでの研究結果は、ロイヒターのサンプル採集のテープを見た否定派の評論家ジャン・クロード・プレサックの、ロイヒターが火葬場IIでポジティブな結果が得られる場所を意図的に避けていたという以前の観察も立証するものであった[9]。ロイヒターが誠実であったとしても、サンプルを集める許可を得ていなかったために、彼の収集が違法に行われたため、それができなかったのに対して、研究所は残留物が集まりそうな場所からサンプルを集める能力を持っていたことが、ここで関係しているかもしれない。

ロイヒター報告書の信用が完全に失墜したため、多くの否定派は死体処理の議論に焦点を当てるようになった。否定派の死体処理論の第一人者は、イタリアの否定派、カルロ・マットーニョである。アウシュヴィッツの死体処理に関する彼の主張は、1994年のモノグラフで初めて示され、アウシュヴィッツのガス室と火葬場に関する彼の考えを進めている[10]。彼は、否定派のウェブサイトに共著で寄せた記事で、アウシュビッツの死体処理について考えを広げた[11]。この記事は、この問題についての否定派の決定的な主張となることを意図していたようだ。彼のガス室の議論は、他のすべての否定派の議論とともに、別のところで検討されている[12]。以下の研究の目的は、死体処理問題を検討することである。この問題に関する否定派の議論を初めて包括的に分析したものである。この研究は、すべての否定派の議論を検証する、より大規模な著作の一章の基礎となるものである[13]。マットーニョは、他の否定派に比べ、その情報源を確認するのが難しいという長所がある。彼は、無名のドイツ人資料やアーカイブ資料を使用している。これらの資料のうち、最も重要なものを探し出し、今回の研究のために調査した。マットーニョの文章は、他の否定派に比べれば洗練されているが、基本的には、省略と誤魔化しという否定派の常套手段に回帰している。

チフス神話

1941年、アウシュビッツはドイツのトプフ&サンズ社によって、2つのダブルマッフルコークス炉を建設した。1942年春には、ダブルマッフルオーブンを増設した。マッフル1つ1つがオーブンといえるので、この時期のキャンプには6つのオーブンがあったことになる。6つのオーブンは、捕虜収容所またはアウシュビッツ1と呼ばれる主収容所にあった。これらの6つの炉は、多くの文献ではクレマIと呼ばれる火葬場に収容されていた。1942年夏、アウシュヴィッツ建設管理部は、アウシュヴィッツIIと呼ばれる収容所のビルケナウ地区に4つの新しい火葬場の建設を開始した。この4つの火葬場には、さらに46のオーブンが収容されていた。クレマIIとIIIはそれぞれ5基の3重マッフル炉(各15炉)、クレマIVとVはそれぞれ1基の8重マッフル炉(各8炉)を備えていた。アウシュヴィッツ主収容所の6つのオーブンと同様に、46の新しいオーブンはトプフ・アンド・サンズ社によって建設され、燃料としてコークスが使用された[14]。これらの事実は、否定派やその批判者からは、何一つ異論がない。

否定派が争っている主要な論点は、建設管理部がこれほど多くの新しいオーブンを建設し始めた理由である。このような大規模な建設が行われたのは、当局が大量殺人を行い、死体を効率的に処理する手段や、囚人にガスを供給するための建造物が必要だったからだと、歴史家は長い間認識していた。建設が始まった当時、ビルケナウにはガス処理に使われた2つの建造物があった。それは収容所の裏の雑木林にあった。主収容所の火葬場にはガス室があり、そこには6つのオーブンがあった[15]。1994年にポーランドのクラクフの法医学研究所が行った法医学的検査では、5つの火葬場すべてから有毒な青酸の痕跡が見つかり[16]、これらの建物がガス室として使われたことを示す多くの目撃証言やアウシュヴィッツの他の文書と一致している[17]。雑木林にあった2つの建物はドイツ軍によって完全に破壊され、跡形もない。しかし、後述するように、そのうちの1つが写真で確認されているのである。

否定派は、アウシュビッツでガス処刑はなかったと主張する。これだけ多くのオーブンを作ったのは、他の要因が大きいとのことだ。1977年、アメリカの否定派として知られるアーサー・バッツは、チフスが新しい炉をたくさん作った主な理由であるとほのめかした。しかし、このヒントははっきりとした形になり、1992年までには、1942年夏に収容所を襲ったチフスの流行が建築運動の理由であるとするようになっていた[18]。カルロ・マットーニョは、チフスの流行と収容所当局が収容所人口の大幅な拡大を決定したことが建設運動の原因であると述べている[19]。

否定派がこの議論をする必要がある理由の一つは、これほど多くのオーブンを建設する正当な理由を見つけなければならないからである。また、この新しいオーブンが24時間以内に処理できる遺体の量についても議論されている。すべての新しい炉が少なくとも一定期間稼働した後の1943年6月の建設管理部の報告によると、52の炉すべての火葬能力は1日あたり4756体であったとされている[20]。この問題に関して、否定派の間で完全には合意されていないが、バッツとマットーニョは、火葬の能力は1日あたり約1000人、1ヶ月あたり3万人であると述べている[21]。マットーニョは、トプフのダブルマッフル炉が1日あたり52体、1マッフルあたり26体を焼却できることを示す別の強制収容所の証拠を知っていたにもかかわらず[23]、6つのオリジナルの炉の最大火葬能力は1日あたり120体だと主張している[22]。

チフスの流行がもっともひどかった1942年8月、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所には21,451人の男性捕虜がいた [24] 。女性の人口に関する情報は欠落している。ただし、女性の人口は1942年12月時点で約8200人だったことが分かっている[25]。これは、否定派の計算によると、収容所当局は、1942年の夏に、収容所の全住民を一ヶ月で焼却するのに十分な火葬場の容量を建設していたことになる。建設管理部によると、これは収容所の人口を1週間程度で火葬するのに十分な容量であったという。仮に、建設管理部の1日4756体という数字が高すぎると仮定しても、なぜ、収容所当局がこれほど高い火葬能力を持つ必要があると考えたのか、という疑問が生じる。収容所に登録された捕虜の数が最も多かったのは1944年の夏で、総計は92,000人をわずかに上回った[26]。

否定派が火葬場建設の理由をチフスのせいにすることに依存しているのは、容易に理解できる。何十万人もの死者が出なければ、このような大規模な建築キャンペーンは正当化されないからだ。1942年の夏、チフスが収容所当局の大きな問題であったことは間違いないだろう。アウシュビッツに関するほぼすべての回想録が、この病気に言及している。問題は、実際にどれだけの人がチフスで死んでいたかということだ。

収容所登録の記録から、4年半の間に約404,000人の登録囚人がいたことが分かっている[27]。ポーランドの歴史家フランチシェク・ピーパー博士は、アウシュビッツの人口統計学的研究を最も包括的に行い、130万人の囚人を収容所まで追跡したのである。彼は110万人が殺されたことを発見した。この中には、登録された20万人の囚人と、到着時に殺害されたために登録番号を受け取れなかった90万人の囚人が含まれている[28]。否定派は、行方不明者の説明をしたことがない。

1989年、モスクワのアウシュビッツ・アーカイブが、1945年1月にソビエトが収容所を解放して以来、初めて公開された。このアーカイブには、ソ連軍の進攻から逃れるために収容所当局からの破壊を免れた数千の文書が保管されている。発見されたものの中には、「アウシュビッツの死の本」があった。登録された囚人の死亡証明書だけが載っている本である。到着時に殺害された非登録の囚人は、死亡証明書が発行されなかった。それゆえ、死の本は不完全なものである。死の本には1941年8月から1943年12月までに死亡した68,864人の登録捕虜の証明書が含まれている。1944年や1941年8月以前の期間の本はない。それらは行方不明か、破棄されたものである。また、1941年8月から1943年12月までの本も多数紛失している。しかし、各本には1400から1500の項目が含まれている[29]。失われた死の本にそれぞれ1500の項目を補間することで、1942年と1943年の登録捕虜の死亡は約8万人になる[30]。アウシュビッツの元収容者であるタデウシュ・パチュラ博士は、1940年から収容所にいた。彼はまた、登録された収容者の死亡記録を保管していた。彼は後に、1942年夏以降の2年間で、約13万人の名前が死亡者名簿に登録されたと証言している[31]。

しかし、約69,000枚の死亡診断書は、登録された囚人の死因を正確に把握する機会を研究者に与えてくれる。現在では、これらの証明書に基づいて、チフスで死亡した囚人はほとんどいないことが知られている[32]。68,864人の死者のうち、チフスによるものはわずか2060人であったことが示されている。

チフスは致命的な病気だが、必ずしもそうである必要はない。ユダヤ人囚人で収容所の医師であったルーシー・アデルスベルガーはチフスにかかり、隔離され、回復後に職務を再開している[33]。同じく囚われの身であったドイツ人医師エラ・リンゲンス・ライナーはチフスに罹り、一命を取り留めた[34]。1947年に書かれた初期のアウシュビッツの回想録の一つに、後に医学実験で「死の天使」と呼ばれることになる収容所医師ヨーゼフ・メンゲレとのエピソードがある。メンゲレはチフスの流行に心を痛めていた。この元囚人は、「残念なことに、収容所ではチフスの流行があったが、この時は犠牲者が比較的少なかった。同じ日、彼(メンゲレ)は大量の血清を送り、集団予防接種を指示した」と書いている[35]。ウクライナ人囚人ペトロ・ミルチュクは、流行の最悪の月である1942年8月の害虫駆除が「流行をなくし、何十億というノミとシラミが存在しなくなった」と書いている[36]。

このように、チフスには回復の可能性があり、また当局もその対策を持っていたことがわかる。登録された囚人たちの死因は、チフスではないのだろうか? 死の本で最も明らかになったのは、死因をどう主張するかということだろう。原因の多くは、「心筋梗塞」「心筋の変性」「心臓や循環器の虚脱」など、さまざまな形態の心不全を扱っている。心臓に何らかの問題がある死亡者は25,000人以上とされている。その他、体力の低下、結核、胸膜炎(肺の病気)、胃腸炎、肺炎など。50歳以下の死亡者数は59,000人である。40歳以下は、44,000人以上の死者を出している[37]。これらの死はすべて、治療を受けなかったチフスの人々にも起こりうることではあるが、記載された年齢の人々が記載された原因で死亡することは、単純にはありえないことである。若い人は、まれに例外もあるとは言え、心不全で死ぬことはまずない。また、子供が老人の苦しみである「老衰」によって死んだとされることもあった[38]。

もし、記載されている原因が物理的な現実に即していないのであれば、死亡診断書はどのように説明されるのだろうか? 唯一の説明は、収容所当局が登録囚人の大規模な殺戮作戦を行っていたことである。その一端はチフスに関係がある。ポーランド人囚人ヴィエスワフ・キエラルは、死亡証明書をでっち上げる役割を担った一人であった。病気の囚人を追い出す方法は、殺すことだったと書いている。彼の手記が書かれたのは1972年、死の本が発見される17年前のことだ。彼は死亡診断書の改ざんについて述べている。

私の仕事は、死亡診断書を書くことでした。囚人が死んだ病気の記述は、収容所で殺された者にも当てはまります。銃殺、注射による殺害、ガス室。それぞれのケースヒストリーが必要です。もちろん、架空のものです。それが収容所当局の要求であり、私が命じられたことでした。そもそも、撃たれたとわかっている囚人の場合、「心不全」と書いていたのは、正直なところです。しかし、後になって、この心不全が多すぎたと思い.....例えば撃たれた人の場合、下痢と書いたり...要するに、無防備な囚人に対して行われた大量殺人の痕跡をすべて消し去るという、死に関わる記録の素っ気ない改ざんに他ならなかったのです[39]。

キエラルの記述は、1942年5月27日に銃殺されたが、死因が「心臓発作」とされた168名の囚人の死亡証明書によって裏付けられている[40]。

前出のドイツの医学者エラ・リンゲンス・ライナーは、チフス患者はフェノール注射で殺されたと書いている。「その結果、我々囚人医師は、チフスをインフルエンザと偽ってリストに載せただけだった」[41]。死亡診断書によると、死因としてインフルエンザが記載されているものは1194件である[42]。

アウシュビッツに配属されたSS一等兵のペリー・ブロードも、終戦直後に書いた回顧録の中で同じようなことを述べている。彼は、死亡診断書についてこう書いている。

この報告書は、医学的な訓練を受けた囚人が書いたもので、病院では、原因が何であれ、収容所で死亡した囚人一人ひとりについて、この報告書を作成することが仕事だった。無数の犠牲者、ブロック11(処刑台)で撃たれた者、フェノールを心臓に注射された病人、飢餓や拷問の犠牲者、彼らは皆、遺憾ながら、普通の病気に屈して死の本によれば命を失ったのだ[43]。

オーストリアの囚人ジェニー・シュナウアーも、「死の本」に死亡を記録した。彼女は1960年代半ばにドイツで行われたアウシュビッツ裁判で、次のように証言している。

記録された死因のほとんどは架空のものでした。したがって、例えば、「逃走中に撃たれた」と記入することは許されず、「心不全」と書かなければならず、「栄養不良」の代わりに「心臓の弱さ」が原因として挙げられていたのです[44]。

否定派が戦後の証言をすべて詐欺だと否定しても、そこにいた4人の目撃者による上記の観察は、死亡診断書と正確に一致しているのである。しかも、これらの観察は、死の本が発見される何年も前に行われたものである。心不全やその他のありえない原因で、そのような病気の危険性のない何千人もの人々が殺されていたことを信じようとしない限り、アウシュビッツで大量殺人が行われていたという上記の回想録や証言の正確さを認めるしかないのである。とにかく、死亡記録と目撃者の観察から、チフスはそれほど多くの捕虜を殺していなかったことが証明された―確実に、これだけの数のオーブンを作るには(チフスによる死亡)囚人の数が足りない。

予想通り、否定派は1995年にこの情報が最初に発表されて以来、死の本に記載されている死因を全く無視してきた。むしろ、マットーニョや他の人々は、チフスが収容者の高い死亡率の原因であるという神話を広め続けている。

チフスを死因の第一位とする誤りの追記は、ベラルーシにあったソ連兵の捕虜収容所モギリョフでも起こっている。これらの兵士の多くは、チフスで死んだと一般に考えられていた。モギリョフの火葬炉の能力は、1日3000体と推定されていた。しかし、現在では、チフスによる死者は比較的少なかったことが分かっている。むしろ、労働、飢餓、寒さによる絶滅政策が、死者のほとんどをもたらしたのである[45]。

▲翻訳終了▲

否定派は本当にしょっちゅう「ユダヤ人が死亡した原因の大半はチフスである!」と主張しますが、死亡理由の内訳や数についての否定派からの具体的な主張は少なくとも私は見たことがありません。知っているのはマットーニョがアウシュヴィッツでの死亡者数の大半があたかもチフスであるかのように偽っている事例程度でしょうか(だがよく読めばマットーニョが述べている死者数がチフスだとはどこにも書いていない)。

悪質な否定派になると、有名なベルゲン・ベルゼン強制収容所の解放時の大量死体画像を用いて「これらの死体はガス室によるものと伝えられていたが、全部チフスだ!チフスでたくさん死んだだけだ!ガス室など嘘っぱちだ!」とまで主張します。

https://www.britannica.com/place/Bergen-Belsen

確かに、ナチスの強制収容所ではチフスでたくさん犠牲者が出たのも史実です。また、これらの死体画像が戦後からしばらくの間、あるいは今でも誤ってガス室の犠牲者の写真であるかのようにしばしば伝えられてきたのも事実です。アンネフランクは上の写真で示したベルゲン・ベルゼン収容所でチフスで亡くなったと伝えられているのも事実です。しかし、ナチスの強制収容所で亡くなったのですから、たとえそれがチフスであったとしてもホロコーストの犠牲者であることもまた史実です。

とは言え、ホロコーストの犠牲者の大半がチフスだというのは完全な嘘です。その大半は絶滅収容所のガス室と大量銃殺刑によるものです。そして、ナチスの強制収容所では、囚人にチフスで大量に死なれると、労働力が減少してしまうので困った問題でもあったのです。だから記事中にあるような、収容所内でのチフス対策も行われており、修正主義者ならよく知る通り、囚人服などをチクロンBを用いて害虫駆除を行ったりして、チフスの蔓延防止に努めていたのです。

もちろん、ビルケナウに大きな火葬場を作った当初の目的は、ガス室以外で死亡者がたくさん出ることを予想してのものでした。その予想の中にはチフスの犠牲者も含まれてはいたでしょうが、過酷な強制労働や、あるいは満足な栄養状態になくて餓死するものなどの他、収容所内での親衛隊による処刑によるものもあったのです。ビルケナウの当初の目的であるソ連軍捕虜の収容に関し、ソ連軍捕虜が如何にナチスドイツによって酷い扱いを受けたかは言うまでも無いことです。ビルケナウ収容所の建設労働に使用されたソ連軍捕虜たちはほとんど全員がその強制労働(衰弱、凍死、餓死など)で死亡したと言われています。

アウシュヴィッツの犠牲者の大半はチフスであったと主張するのであるならば、きちんとその数的根拠を示してほしいものです。もちろんそんなものはあるわけありません。何せ、否定派がアウシュヴィッツの実際の死者数はこんなに少なかったと見せかけたいための史料であったはずのソ連から見つかった「Auschwitz Death Book」の死亡診断書にはたったの2000人強しかチフスと書いていないのですから。

>>(2)火葬場の起源、火葬場の必要性

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