「労働不適格者はすぐに殺された」の話をすり替える否定派たち。
今回は小ネタの否定論についてです。ホロコースト否定派の戦略として、いわゆる「正史派」、すなわち一般的な学説を否定するというものがあります。簡単な例では、
アウシュヴィッツでは、子供や老人、病人などは労働不適格だから収容されずに絶滅させられたとされる。しかし、解放時に子供がいた映像があるではないか? 正史派は嘘をついており間違っている!
のような話です。これについてはこちらで詳しく解説されています。一言で言えば、誰も例外がいないなどとは一言も言っていない、ってことです。しかし、アウシュヴィッツの歴史に無知な人たちにとって、正史派の主張する「規則」から外れた事例があることは、それらが例外ではなく、規則そのものが誤りだとの印象を与えます。根本的には、そのような規則を明示した公式文書の非存在の欠陥を狙われているのです。
さらに、今回扱う話はもう少し悪質です。一般的に正史派がアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所で「選別」があったことを説明しているのは、この選別はアウシュヴィッツに強制移送されて到着したユダヤ人が登録囚人とされるか、されずにガス室送りになるかについての話なのです。それを、今回扱う話では否定派は登録された囚人の話にすり替えているのです。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所についてほとんど知らない人たちは、そこが単純に「ユダヤ人が絶滅されるところ」としかイメージしていないケースが多いのです。しかし実際には、非ユダヤ人も収容されていたし、ユダヤ人絶滅機能は、この収容所に後から付け加えられた機能であり、強制収容所でもあったわけで、いわば二重の機能を持つ収容所だったのです。そして、翻訳本文中でも解説されている通り、戦時下の話ですから、一旦囚人として登録された人たちは労働力として貴重な資源であり、ユダヤ人は使い捨てではあるとしても、労働力は維持される必要もあります。当然、「ユダヤ人を殺すのか?生かすのか?」という意味で矛盾はしていますが、実際にナチスドイツのこうした方針は矛盾していたのです。結果的には殺すけど、死ぬまではこき使う、だったのです。だから収容所内には囚人用の病院・病棟区画すらあったのです。但し、その病院では治療だけでなく選別も行われました。
さて今回は、ホロコースト否定派は、話をすり替えるだけでは気が済まず、資料の歪曲利用までやっているというのが今回の話です。ほんとに否定派って、真面目に資料を利用する気などさらさらないのです。
▼翻訳開始▼
ホロコースト否定派、ゲルハルト・マウラーとアウシュビッツでの労働に不適格なユダヤ人
彼の「古典的」な否定パンフレット『アウシュヴィッツ。神話と事実』IHR関係者、のちの所長マーク・ウェーバーは、次のような主張を発表している。
ウェーバーに追随した著名な否定論者が何人かいる。ゲルマー・ルドルフは、『ホロコースト講義』(2010年版、ただし、この主張はそれ以前にも登場している)の中で、ウェーバーに依拠して、次のように書いている(207n167頁)。
デヴィッド・アーヴィングは、自身のサイトにある文書の画像にコメント付きでリンクしている。
かつて否定派であったジョエル・ヘイワードは、修士論文「ドイツの手に落ちたユダヤ人の運命」(インターネット版の72ページ)で次のように書いている(ちなみに彼はその後、非常に未熟な作品であると放棄している)。
最後に、『アウシュビッツの医療』(2016年)のカルロ・マットーニョは、もはやウェーバーに頼らず、こう書いている(74頁)。
否定派は、明らかな意図を持ってこの文書を引用している。彼らは、アウシュヴィッツの歴史のある時点で、すでに「主張されている」ユダヤ人絶滅が始まった後、働けないユダヤ人が生かされていただけでなく、この時期には大多数のユダヤ人が働けなかったことを示すことができれば、「正史版」は誤りであると考えているのである。
さて、アウシュビッツで労働に適さないユダヤ人がいつでもすぐに殺害されたと主張するのは、実は間違っている。例えば、今日働けない人が明日には回復するかもしれないので、特に労働力不足の時代には、ユダヤ人であっても多くの人を生かそうというインセンティブが働いていた。そう、ナチスの政策によれば、すべてのユダヤ人は死ななければならない。しかし、すべてのユダヤ人がすぐに死ななければならないわけではない。イデオロギーと現実的な必要性とは、互いにバランスを取らなければならなかった。
そして、もちろん、時折、さまざまな規模で一般的な方針の例外(日本語訳)があった(いわゆる家族収容所など)。従って、たとえば、10%のケースで例外が見つかったからといって、原則として、労働に適さないユダヤ人がアウシュヴィッツで殺害されなかったとはいえない。故に、たとえば、1944年6月6日のいわゆる「フィリップス輸送」のように、一部のユダヤ人輸送が到着時の選別を免れ、その結果、すべての子供と病気の成人が、例外的状況により収容所に登録されたとしても、ほとんどの輸送が選別を受けなかったということにはならないのである。
とはいえ、2万5000人のユダヤ人のうち、約2万1400人が働くことができず、それでも収容所にいて殺されなかったとすれば、確かに、絶滅収容所という文脈では、いささか奇妙に見えるかもしれない。しかし、その主張は本当なのだろうか。
否定派の扱いの問題点は、マウラーのメッセージを歴史的・資料的な文脈に即して整理しようとしないことだ。そこで、彼らの仕事を代行し、この文脈を復元してみよう。まず、関連する文書をすべて引用してみよう。
1943年8月26日:マウラーからヘスへ
ドイツ語テキスト(スペルミスそのまま;APMO, D.Au I-3a, k. 357;D. チェヒ、『アウシュヴィッツカレンダー』、1943年8月26日のエントリーから引用;J. バルケ、『組織化による責任の軽減』にも掲載されている:『「強制収容所視察」と強制収容所の恐怖』, 2001, S. 133):
Oranienburg Nr. 5294 26.8.43 1500=GR=.
An den Kommandante KL. Auschwitz SS-Obersturmbannfuehrer Hoess.
Betrifft: Abgabe von Judenhaeftlingen.
Wie ich bereits am 25. ds. M. SS-Hauptsturmfuehrer Schwarz gesagt habe, benoetige ich baldigst die Zahl derjenigen juedischen Haeftlinge die an andere KL abgegeben werden koennen. Es kommen nur voll arbeits- und einsatzfaehige Juden in Frage und zwar vornehmlich Westjuden.
Baldige Nachricht erwarte ich.
翻訳
オラニエンブルク No. 5294 26.8.43 1500=最高機密=.
CC(註:「強制収容所;Concentration Camp」の略記)アウシュビッツの司令官SS親衛隊中佐ヘスへ
件名:ユダヤ人捕虜の引き渡し
今月25日にシュヴァルツ親衛隊大尉にすでにお話したように、他のCCに引き渡せるユダヤ人捕虜の数をできるだけ早く教えていただきたいのです。完全に労働と配備が可能なユダヤ人だけが対象であり、それはとりわけ西部のユダヤ人を意味します。
近いうちにレポートを期待しています。
1943年8月28日:セルからマウラーへ
ドイツ語テキスト(APMO, D.Au I-3a, k. 358;括弧内のテキストは原文では削除されている;D.チェヒ、『アウシュヴィッツ・カレンダー』、1943年8月28日のエントリーから引用; J. バルケ、前掲書、S. 134にも掲載されている):
3143 28.8.43.Betreff: Abgabe von Juden-HäftlingenBezug: DortFS v.26.8.43. Nr.4294Von den im KL Auschwitz einsitzenden Juden sind 446 deutsche, 700 französische, 198 slowakische, 162 tschechische, 37 kroatische, 127 holländische, 184 belgische, 5 norwegische, 1722 griechische Juden arbeitsfähig und restlos bei den Rüstungsbetrieben beschäftigt (und können nicht abgegeben werden.)
翻訳
3143 1943年8月28日
件名:ユダヤ人捕虜の引き渡し
リファレンス:1943年8月26日付けのテレタイプメッセージ。No.4,294
アウシュビッツ強制収容所のユダヤ人のうち、ドイツ人446人、フランス人700人、スロバキア人198人、チェコ人162人、クロアチア人37人、オランダ人127人、ベルギー人184人、ノルウェー人5人、ギリシャ人1722人は仕事に適し、全員が兵器工場に従事しました(であり、引き渡すことができません)
1943年8月31日:マウラーから司令官事務所
ドイツ語テキスト(APMO, D.Au I-3a, k. 359;D.チェヒ、『アウシュヴィッツ・カレンダー』、1943年8月31日のエントリーから引用):
Oranienburg Nr. 5420 31.8.43 1520 =KOE=
An die Kommandantur KL. Auschwitz.=
= Betr.: Abgabe von Juden-Haeftlingen.=
= Bezug.: Dort, FS,- Nr. 20329 vom 29.8.43.=
Es ist mir zu melden, in welchen Ruestungsbetrieben (zahlenmaessig) die insgesamt 3,581 arbeitsfaehigen Juden eingesetzt sind.==
翻訳
オラニエンブルグ No. 5420 1943年8月31日 1520 = KOE =
CCアウシュビッツの司令官事務所へ
件名;ユダヤ人捕虜の引き渡し
リファレンス;1943年8月29日付のテレタイプメッセージNo.20329
どの軍需工場で(数的に)合計3,581名の労働に適したユダヤ人が雇用されているか、私に報告するようにとのことです。
1943年9月10日:セルからマウラーへ
ドイツ語テキスト(APMO, D.Au I-3a, k. 361;cf. D.チェヒ、『アウシュヴィッツ・カレンダー』、1943年9月1日のエントリーから引用):
3242 Betreff: Abgabe von Juden-Häftlingen 1.9.43.
Bezug: DortFS vom 31.8.43, Nr.5420
Die mit hiesigem FS v.28.8.43. gemeldeten 3.581 arbeitsfähigen Juden teilen sich, wie folgt, auf:
Buna 1.996
Eintrachthütte 83
Jaworzno 606
Krupp 22
Jawischowitz 726
Golleschau 148
翻訳
3242 件名:ユダヤ人捕虜の引き渡し 1943年9月1日
リファレンス:1943年8月31日、No.5420からのテレタイプメッセージ
1943年8月28日のテレタイプ・メッセージで報告された労働に適したユダヤ人3.581人は、次のように分布しています。
ブナ(モノヴィッツ) 1.996人
アイントラクトヒュッテ 83人
ヤウォズノ 606人
クルップ 22人
ヤウィシュコヴィッツ 726人
ゴレズシャウ 148人
1943年9月4日:マウラーからヘス
ドイツ語テキスト(from T. ベレンシュタイン、A. アイゼンバッハ、A. ルトコウスキー、『ナチス占領下、ポーランド国内で行われたユダヤ人絶滅』、 1957、s. 253より;J. バルケの前掲書にも掲載されている):
Im KL Auschwitz sitzen zur Zeit rund 25.000 jüdische Häftlinge ein. Ich habe am 25.8.43 SS-Hauptsturmführer Schwarz gesagt, dass ich die Zahl der voll arbeits- und einsatzfähigen Juden wissen muss, da ich beabsichtige, Juden vom KL Auschwitz abzuziehen, um sie bei Rüstungsfertigungen im Reich einzusetzen. Am 26.8.43 habe ich dies durch FS noch einmal mitgeteilt. Nach dem dortigen FS vom 29.8.43 sind von den einsitzenden 25.000 Juden nur 3.581 arbeitsfähig. Diese sind aber restlos bei Rüstungsvorhaben eingesetzt und können nicht abgegeben werden.
Was machen die restlichen 21.500 Juden?
Irgend etwas kann hier nicht stimmen! Ich bitte den Vorgang erneut zu überprüfen und mir zu berichten.
翻訳
この時のCCアウシュビッツには、約25,000人のユダヤ人囚人がいます。1943年8月25日、私は、親衛隊大尉シュヴァルツに、完全に作業・配備可能なユダヤ人の数を知らなければならないと伝えました、私は、帝国内の兵器製造に利用するために、アウシュヴィッツからユダヤ人を引き抜くつもりだからです。 1943年8月26日、私はもう一度このことをテレタイプで伝えました。1943年8月29日の現地からのテレタイプメッセージによると、現地にいる25,000人のユダヤ人のうち、働けるのは3,581人だけだそうです。しかし、これらはすべて軍需プロジェクトに使用されるものであり、手放すことはできない、と。
残りの21,500人のユダヤ人はどうしているのでしょうか?
何か変です! もう一度状況を確認し、報告してください。
今、その全貌が明らかになり、いくつかのことが分かった。
まず第一に、マウラーは労働に適したユダヤ人の実数をアウシュビッツに依存していた。ウェーバーはこの重要なニュアンスを省略したため、これがマウラー自身によるある種の客観的な最終数字であるかのように読者を誤解させたのである。実際には、マウラーはこの数字にショックを受け、説明を求めていたのである。最も露骨なのは、ウェーバーが21,500という数字をマウラーによって「報告」されたように見せたことである。しかし、それは、アウシュビッツが提供したデータに基づいてマウラーが論理的に出した結論にすぎない--この結論は、まもなく見るように、データに関する誤った仮定に基づいていたのである。
ヘイワードは、「最高の情報通」であるマウラーについて、「一番良く知っているであろう」とコメントしているが、この文脈ではかなり滑稽に見える。もちろん、ヘイワードは原文を確認することなく、ウェーバーに全面的に依拠した。マットーニョは全文を引用したが、その意味を考えることを止めなかった。
第二に、返信の1943年8月28日のメッセージから、彼が非ポーランド系ユダヤ人の数しか提供していないことが痛いほどよくわかる。彼の統計にはポーランド系ユダヤ人は含まれていないのだ。基本的に、彼は「Westjuden」(この例では、典型的な「Ostjuden」とは異なると見なされることの多かったチェコ系ユダヤ人を含む)の統計を提供することがほとんどである。特に、8月にポーランド系ユダヤ人が流入したことを考えると、その意味は大きい(チェヒの『アウシュビッツ・カレンダー』参照)。
なぜか? まず第一に、マウラー自身が「西部ユダヤ人を何よりも大切にしたい」と書いているからだ。確かに、彼は「だけ」とは言っていないが、アウシュビッツの管理部門は明らかに自分たちの仕事のユダヤ人を自分たちのものにしたかったから、セルは多かれ少なかれこのように解釈することを選んだのであり、官僚の狡猾さを示す良い例である。セルはその際、「私の理解では、あなたはあのポーランド人のOstjuden(東部のユダヤ人)を本当に必要としていなかったので、私は報告しませんでした」と言うことができた。最終的にはそう説明したのかもしれないが、マウラーへの回答が残っていないようなので、わからない。
ホロコースト否定派は、単に宿題をやっていないだけだ。そしてマットーニョの例は最もひどいもので、よりによって彼はこれらの文書を研究していたはずだからだ。確実に、チェヒの本にまとめられた情報でも、十分に理解できたはずだ。ベレンシュタインは、このユダヤ人の国籍も挙げており、このことから、彼らの中にポーランド系ユダヤ人はいなかったことがわかる。こんなの学問ではない。
もう一つの考察:1943年5月31日には、アウシュヴィッツには58,584名の囚人がおり、そのうち14,743名が働くことができなかった(25,2%)。1943年11月1日には、87,573名の囚人がおり、そのうち14,548名が働くことができなかった(16,6%)(AGK、NTN、134、254k、258k)。 その間の正確な数字はわからないが、8月から9月にかけて、おそらく全囚人の約20%(数パーセントの差はあるが)が労働不能であったことを示している(余談だが、PS-1469のように8月の平均を74000人と仮定して、15000人の労働不適格者を計算すると、パーセントの大まかな平均と同じ結果が得られる)。注目すべきは、この時期、働けない囚人の数は1.4〜1.5万人程度と、かなり安定していたことだ。そして、このうち少なくとも数千人は非ユダヤ人の囚人でなければならなかった。したがって、1943年8月から9月にかけて働けなかったユダヤ人だけで(!)21,400人という数字は、まったくもって非現実的である。
実際、同じソースからの数字を引用したマットーニョは、この異常に気づくべきだったのに、その代わりに支離滅裂で理解不能な数字を、馬鹿げた統計の「裏付け」に使ってしまったのである!
この話題になったので、アウシュヴィッツでの労働に適さないユダヤ人についてのもう一つの議論をさっそく見てみよう。ウェーバーは、上に引用したパンフレットの中で
これをルドルフがオウム返しにした(前掲の脚注と同じである)。この文書(NI-317としても知られている)はまた、アーサー・バッツが『20世紀のデマ』(175ページ)で引用し、その後ヘイワード(上に引用したのと同じページ)でも繰り返された。つまり、この二つの歪曲は、多かれ少なかれ手を取り合っているのである。
しかし、この「問題」とされるものは、マウラーレターの問題よりもさらに哀れなものである。ポールは、その1万8000人のすべてがユダヤ人であったとは一言も言っていないし、示唆もしていない。回復の見込みがないほど病気になると、原則として、絶滅させられるのはユダヤ人であり(繰り返すが、ユダヤ人の労働力は貴重なので、そのようなチャンス-2週間程度の入院-が与えられることが多かった)、当時、ほとんどの非ユダヤ人には絶滅は適用されていなかったので(NO-1007と同様に、キンナ報告も参照)、否定派がこの文書でいったい何を証明しようとしているのかを無駄に理解しようと試みることになる。
否定派は原典を確認せず、互いにオウム返しをし、文書を文脈から取り出してひどく誤解している、というのがこれらすべての例である。かなり典型的だ。中にはかなり勤勉な人もいて、数多くの資料館を訪れ、驚異的なスピードで本を出版している。しかし、彼らは古文書や書物から得た情報を実際に分析できる気配はなく、歴史に関してはまったく無能なので、彼らの勤勉さは結局はナンセンスの山を築くだけなのだ。
追記:ポーランド公文書館の資料を提供してくれたニック・テリー氏に感謝します。
投稿者:セルゲイ・ロマノフ@2017年02月08日(水)
▲翻訳終了▲
この話は日本語では、多分ここにしか情報はないが、大元はこんなサイトである。で、一体主催者は誰? と思ったらその筋ではかなりの有名人だった。
とにかくこの人のことを「日本のネオナチ」と呼ばない人はいないだろう(笑)
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