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BBC制作『アウシュビッツ ナチスとホロコースト』におけるビルケナウ・ブンカーの描写について。

アウシュビッツのビルケナウ収容所で、ユダヤ人大量虐殺が始まったのは、1942年3月頃とされているが、最初はビルケナウの敷地の外にあったブンカーⅠ(赤い家)と呼ばれる場所から始まった。しかしこれを否認論者は、その存在自体を疑問視するらしい。何故なら、ブンカーはビルケナウの敷地内にクレマトリウムⅡ〜が完成し、そこで大量虐殺が始まると取り壊され、完全になくなったからである。(ブンカーⅡ(白い家)は44年内までは残り、ハンガリー系ユダヤ人が増えすぎた時にガス室として再稼働している。その後に取り壊された。こちらの方は建物跡は残っているらしい)

今の所、私がその存在を証明するものとして知っているのは、ある親衛隊員の日記と証言、収容所所長ルドルフ・ヘスによる回想録、そして収容者であるユダヤ人生存者の証言(十数名に上る)である。おそらくは公式記録が存在しない。その図面も、シュロモ・ドラゴンというユダヤ人生存者が戦後に書いたものしか存在しない。

ブンカーについては、こうした証拠状況から、なかなか分かりづらいため、ここではBBC制作の『アウシュビッツ ナチスとホロコースト』より、証言者の証言や解説再現映像のスクリーンショットを並べつつ、字幕となっている文章を動画内から引用し、後々に情報として使えるようにこの記事を作成することとした。自身で注釈も一応付けることとした。ともかく、初学者なので整理しないとよくわからないのである。

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ヘスはアウシュビッツから240キロ離れた自宅で
家族と住んでいました
スロバキア人を待っていたのです
ビルケナウ収容所にいた
ソ連の捕虜は各地に送られていました
ユダヤ人が中心の収容所になるのです

ビルケナウ収容所から3キロほど離れた場所に
ヘスたちは簡易的なガス室の設置を計画しました
建っていた小屋はのちに"赤い小屋"と呼ばれ
第一バンカーに

注)『ホロコースト大事典』(柏書房、p140)によれば、「新しい施設を使っての殺戮はドイツ当局が区域のポーランドの村を破壊した後もなお残されていた二軒の農家を使うかたちで行われた」とあり、この動画では建設されたとしているようで、大事典側が正しいとすればこれは誤りである。ところで、解説ではビルケナウ収容所から3キロほど離れた場所にブンカー(第一バンカー)があったというのであるが、それには首を捻った。地図は以下の通りである。(https://encyclopedia.ushmm.org/content/en/map/auschwitz-ii-birkenau-camp-summer-1944 より引用)

ちょっと分かり難いかも知れないが、この地図によればどうやら右側にある14がブンカー1である。つまり、線路から3キロということなのだろうか? するとビルケナウ敷地全体でざっと横に4キロくらいあるわけ? ところが、グーグルマップ上で距離計測してみると、横幅はざっと1.4kmしかない。うーむ、謎解説だ。私が何か間違っているのだろうか? 
追記:もっと調べてビビった。上のBBCからのスクショ画像に写っている敷地は合っている。当にそこはブンカーⅠがあったとされている土地である。以下にそのグーグル航空写真を示す。

何故、番組内の解説で「ビルケナウから3キロ離れた」なとと表現したのか? 謎としか言えない。ちなみにアウシュビッツ第一基幹収容所からだとちょうど3キロになるから、その間違いなのかもしれない。しかしグーグル様様だなぁ、パソコン上であっという間にわかってしまうんだからスゲェや。多分スマホでも調べられると思う。

ヘスたちは殺害手段が一歩前進したと感じました
作られたガス室は2つ
窓とドアをふさぎ
新たな扉を2枚設置
収容所の火葬場と違い
密かに殺害を実行できます

この粗末な小屋で
数万人が殺されました
殺害方法は同じです
シャワーだと言って部屋に閉じ込め
壁の扉からチクロンBを投入
数週間後ナチスは近くに同様の家を建設します
"白い小屋"です

注)数週間後とあるが、前掲書では六月末とあり、ブンカー1が出来たのは3月なので三ヶ月後ということになる。3ヶ月=12週間とすれば数週間後とは言えないことになる。また前掲書では前述したとおり既存の農家を使う形だったとされているので、前掲書が正しいとすれば新たに建設されたのではない。なお、「壁の扉からチクロンBを投入」と言っているが、壁の上方に小さな木の扉付きの四角い穴があり、その事を言っている。スクショは掲載していないが、動画(当然CG再現映像)の中で一瞬映る

スロバキアのユダヤ人が降車場についたのは
1942年4月29日でした
そこで選別されたのです
その後30ヶ月に及ぶ選別の始まりでした

注)30ヶ月間、このブンカーで選別されたのではなく、ビルケナウでという意味である。また、前掲書によれば「ブンカーの最初のガス殺は1942年3月20日あたりに行われている。犠牲者はオーバーシュレジエン、ドンブロヴァ地方在住のユダヤ人だった」とあり、スロバキアとの国境に接するとは言えポーランドである。話のつながりからスロバキア人で始めているのかも知れないが、違和感のある表現である。

エヴァ・ボタボバ アウシュビッツ スロバキア出身ユダヤ人証言
「到着後ドイツ語ですぐ降りろと
怒鳴られたわ
彼らは親衛隊だった
男性を先頭に一列に並んだ
後ろは女性 子供 老人の順
ここから見えた 父の悲しい顔が
最後の父の記憶よ」

注)この人は下記の人達のわりとすぐ後に連れてこられたようだ。ともかくスロバキアは一人に付き500ライヒスマルク(約2万7500円)を支払ってまでユダヤ人をドイツに譲り渡したのである。故にナチスはユダヤ人の処分で儲けてさえいたのである。ユダヤ人から奪った資産を含めると莫大な儲けを得ており、その上強制労働ですら、当然の如く囚人にはビタ一文支払わず、各企業から賃金を受け取っていたのはナチス親衛隊なのだ。これを知らずある人などは「ユダヤ人虐殺の予算が国家予算には計上されていなかった」などと無知な否定論を繰り出すのだから開いた口が塞がらない。その上さらに言えば、その奪った金で収容所の親衛隊員は私服さえ肥やしていたのである。

選別されたユダヤ人はビルケナウ収容所を過ぎ
孤立した赤と白の小屋に向かいました

オットー・プレスブルゲル
アウシュビッツユダヤ人収容者証言
「到着した人々を見たよ
座って待ち
持参した食料を食べていた
監視犬と親衛隊もいた
彼らは何も知らないんだ」

注)オットー・プレスブルゲル(Otto Presburger)氏は検索すると色々と証言動画や紹介文が出てくるが、上記のエヴァ・ボタボバ氏は綴りがわからず検索のしようがない。

戦後 ヘスは裁判を待つ間
1942年の春に行われた小屋での虐殺を記しています
"最も重要なのは服を脱がせる際に
"落ち着いて行動させることだった"
"幼い子供たちは不安で泣くことが多い"
"だが母親や特殊部隊員が慰めると"
"落ち着くのだ"
"冗談を言い 玩具を持ってガス室に入った"
"何百人もが人生の最盛期にいた"
"彼らは満開を迎えた果樹の下で"
"死ぬとは知らずにガス室に入る"
"生と死がともにある光景を今でも覚えている"
"私は彼らを敵だと思っていたのだ"
"ユダヤ人絶滅計画は私には正しいように思えた"

ガス殺の遺体は他のユダヤ人に命じ
トロッコで線路上を移動させ巨大な穴に運びました
プレスブルゲルは遺体を運んだ一人です

「最初は目的も分からず
穴を掘らされた
十分な深さになると遺体を放り込んだ
毎朝並べられる新しい遺体を
埋めたんだ」

注)プレスブルゲル氏の後ろに写っている池が、どうやら遺体を放り込んだ穴らしい。

「夏になると遺体が腐敗して
悲惨だった
多くの労働者は
同郷の人だった
皆知人だ
徐々に数が減り
ここに埋められた
私の父と兄弟の遺体もね」

1942年の夏までにヘスらは数千人を殺す手段を得ました
しかし上司の要求する"最終的解決"のペースに
追いつくことが出来ません
何百万人もの排除が必要でした

その後 数カ月間で建物の規模を拡張し
問題を解決しました
大量虐殺を可能にしたのです
その結果
虐殺の対象は欧州全体に
さらに大勢の人をここで
殺したのです

注)この解説ではまるでブンカーを拡張工事をしたかのように聞こえてしまうが、それは違う。これはビルケナウ敷地内のクレマトリウムⅡ〜Ⅴの話である。

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こうしたBBCドラマの内容を引用紹介してどれほどの意味があるのかわからないけど、大雑把にはだいたいこのような感じでビルケナウでの最初の大量虐殺が行われていたということなのである。囚人生存者や親衛隊員だった人の証言や日記、ヘスの回想録などでしかわからない、結構謎に包まれたブンカー。それ故に、否認論者には突っ込みやすいのであろう。ところで実は、たった一枚だけ、ブンカーⅡ(白い家)らしき建物が写っている写真があるらしい。

色々と資料や証言も調べてみたいとは思っているが、なかなかに掴み所がないのがこのブンカーなのである。BBC作成の動画は、「一体そんなにハイドリヒに似てる役者をどこから調達したんだ?」というくらいによく出来ているのだけど、資料を突き合わせていると意外に変なところがあったというのは収穫だった。

以上。

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