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アウシュヴィッツの遺体処理(2):火葬場の起源、火葬場の必要性

アウシュヴィッツ収容所に火葬炉・火葬場が最初に導入されたのは1940年半ばのことです。トプフ・ウント・ゼーネ社によるもので、開発はクルト・プリュファーという技術者が中心となって行っていました。トプフ社の事業は、暖房装置や醸造・製麦機器、サイロ、煙突、都市ゴミ焼却炉、火葬場など、多角的でしたが、火葬炉はほとんど陽の目を見ることがないほど同社では日陰部門でした。

それが有力事業になり始めたのは、ナチス親衛隊との契約を結んでからです。当時は、他にコリ社などがありましたが、トプフの火葬炉は、どうやらその火葬処理能力が同業他社よりも優れていたようです。特にアウシュヴィッツなどで導入された多重火葬炉は他社にはないものでした。「多重」とは死体を入れる箇所(マッフル)が複数連結されていることを示します。これにより、隣り合うマッフル内の熱を複数のマッフルで共有することが可能になったのです。

何故そんな構造にしたのでしょうか? たとえばトップの画像で示した図面には湾曲した煙道が繋がれた五つの火葬炉が見えますが、この個々の火葬炉は三重マッフルになっており、加熱するためのコークスを燃やす箇所は一つの火葬炉につき、二つしかありません。つまり三重の真ん中に位置するマッフルの下には、コークスを燃やす箇所はないのです。これは、隣の連結されたマッフルから熱が供給されるからなのです。

ということはつまり、三重マッフルは同時に使用されることが前提されていたことがわかるという理屈です。個別に使用することも可能ですが、それではコークス・熱が無駄なだけです。要するに、大量の死体を焼却処分するための連結構造だったという事実が、たったこれだけの素人的推測でわかるのです。

しかし、どうしてそんな高処理火葬炉がアウシュヴィッツに必要だったのでしょうか? もちろんそれは大量の死者が出ると予想されたからに違いありません。ともあれ、修正主義者が推定する理由とともに、その起源と必要性についての解説記事を以下で翻訳紹介します。

▼翻訳開始▼

アウシュビッツの死体処理
ホロコースト否定の終焉

(1)チフス神話
(2)
火葬場の起源、火葬場の必要性
(3)
キャンプの拡大、オーブンの耐久性
(4)
火葬炉の能力
(5)
燃料消費量
(6)
記録の不在、野外火葬:1942年と1943年
(7)
野外焼却と写真:1944年
(8)
ジョン・ボールの写真、結論、謝辞

火葬場の起源

チフスの流行が始まる半年以上も前の1941年10月22日、建設管理部はアウシュビッツのオーブンの製造者であるトプフ&サンズ社に手紙を送った。この手紙は、以前、建設管理部の責任者とトプフ社の担当者が交わした会話について言及していた。その手紙には、建設管理部が三重マッフル炉を5基、すなわち15台のオーブンを注文していることがトプフ社に伝えられていた。この命令は、その後の1942年3月5日と3月30日の2通の書簡でも参照されている[46]。当時、アウシュヴィッツには4つのオーブンがあり、もう1つのダブルマッフル炉が建設中であった。したがって、当局は6つのオーブンを持っていたのである。

収容所内で大きな伝染病が発生したわけでもないのに、当局はなぜ収容所の火葬能力を3.5倍(6炉から21炉)に増やすことにしたのだろう? その答えは、この発注が行われた1941年10月の別の出来事にある。10月7日から31日までのアウシュヴィッツ死体安置所登録(アウシュヴィッツの「死の本」と混同してはならない)は、1255名のソ連兵捕虜の死亡を記録している。1941年10月から1942年1月までの間、死体安置所の記録には、収容所に運び込まれた9997人のソ連人捕虜のうち7343人が死亡したことが記録されており、4ヶ月間で73%という驚くべき死亡率であった[47]。アウシュビッツ当局は、収容所の人口を125,000人にまで大幅に拡大する計画を持っていた[48]。

また、非ソ連の囚人が大量に殺害されていたことも、かなりの証拠がある。アウシュビッツの「死の本」は、ほとんど不完全ではあるが、この点で有益な情報を提供している。1941年8月4日から9月10日までに、1498人の登録捕虜が死亡したことが示されている。さらに1490人が1941年10月21日から11月22日にかけて死亡した[49]。この時期の死の本は2冊欠落しているが、前述のように各死の本には1400〜1500人の氏名が記載されている。つまり、1941年8月から12月までの5ヶ月間で約6,000人の非ソ連人捕虜が死亡したことになる[50]。1941年にアウシュヴィッツに登録された囚人の総数は不明であるが、1942年1月19日の収容所記録には、登録された囚人の総数は11,703名であり、その中には1510名のソ連兵捕虜が含まれている[51]。つまり、1941年の最後の5ヶ月間で、1942年の初めに登録されたよりも多くの捕虜が死亡したことになる。収容所文書によると、1940年5月20日から1942年1月31日までにアウシュヴィッツにいたことがわかっている36,285名の囚人のうち、20,565名が説明できないことが判明している[52]。1941年11月、ポーランド亡命政府は、ポーランドの地下組織から得た情報に基づき、「冬の間、火葬場の炉はすべての死体を焼くのに十分でなかった」と報告している[53]。その結果、新しい火葬場の起源は大量殺人にまでさかのぼることができるのである。

アウシュヴィッツについての我々の知識は、1942年の春のある時期に、そこに到着したユダヤ人のほとんどが絶滅収容所となったということである[54]。1942年10月13日、建設管理部長は手紙で次のように述べている:「新しい火葬場の建物の建設に関しては、特別行動による状況のために、1942年7月にすぐに開始する必要があった」[55]。この手紙には、「特別行動」の結果、火葬が必要な死体が出たことが明確に書かれている。

「特別行動」という言葉は、アウシュヴィッツの医師ヨハン・クレマーが1942年9月から11月にかけてつけていた日記の中で14回言及されている[56]。日記は逮捕当局によって押収された。1947年の裁判でクレマーは、特別行動とは囚人へのガス処刑のことだと証言している。「これらの大量殺人は、ビルケナウ収容所の外の森の中にある小さなコテージで行われた」[57]。クレマーは、1960年代半ばのアウシュヴィッツ裁判でも、被告でないにもかかわらず、同様の証言をしている[58]。フランスの否定論者ロベール・フォーリソンは、クレマーが言及した「特別行動」は、1942年の夏に収容所を襲ったチフスの流行との戦いに言及したものであると主張した[59]。しかし、クレマーはどの記述にも、チフスを特別行動と同一視していない。建設管理部の「特別行動」メモの1日前に書かれた10月12日の記録では、チフスを特別行動から切り離し、夕方に予防接種を受けたと書いている。「それにもかかわらず、その夜、私はオランダから来た人々(1600人)に対する別の特別行動に立ち会った。最後のブンカー[ヘスラー]!の前での恐ろしい光景! それは 10 回目の特別行動だった」[60]

1942年8月21日付の建設管理部からのもう一つの明らかになった書簡は、収容所のビルケナウ地区に6つの新しいオーブンを建設することについてのトプフ&サンズ社との話し合いについて述べている。書簡には、新しいオーブンは「特別行動のための入浴施設」の近くに建設されることが予想されると書かれている[61]。この新しいオーブンは、おそらく火葬場が建設されるまでの間、一時的に使用されることを想定していたのだろう。この書簡は、これらの特別行動が「入浴施設」で行われていると言っているのである。この言葉の意味を誤解しないように、2ページにわたる長いメモの中で、唯一下線が引かれているのがこの言葉である。 また、「入浴施設」の近くにオーブンを設置するということは、「入浴」で死体が出るということを意味している。入浴発言の文脈は、ガス室をシャワーに偽装することが一般的であったという目撃者の多くの証言に照らして、検討されるべきである[62]。クレマIIIの「死体安置用地下室」の一つの設備の目録には、「14のシャワー」と「ガス気密ドア」が記載されている[63]。

マットーニョは、「特別行動」は必ずしもガス処刑を意味するものではないと主張した。彼は、否定派の評論家ジャン・クロード・プレサックが言及したメモを引用し、民間人労働者の間での「特別行動」に言及した。建設管理部のメモには、「安全上の理由から、すべての民間労働者の間で特別行動を行った」と書かれている[64]。プレサックは、この「特別行動」が殺戮を意味するものではないと考えた。むしろ、彼は民間人の間でのセキュリティチェックを意味していると解釈していた。この例ではプレサックの解釈は可能であるものの、彼はこの「特別行動」を文民労働者のストライキという文脈で述べているため、確実ではない[65]。収容所管理者が、民間人労働者の何人かを見せしめに処刑しようとした可能性は十分にある。このメモが「秘密」と記されているのはそのためかもしれないのである。

火葬場の必要性

先に述べたように、否定派は、4つの新しい火葬場と46の追加オーブンの建設は、1942年夏に収容所を襲ったチフスの流行が原因だと考えている。チフスの死因は非常に少ないことが示されたが、それでも登録された囚人がチフスで死亡していたらという量から、建物の必要性を検証することは可能である。つまり、登録囚の死因がすべてチフスであったと仮定して、それを処理するために新たに4つの火葬場と46のオーブンを建設する必要があったのだろうか? 必要性を検証するには、他の強制収容所の死者数やその収容所の火葬能力との比較しかない。このような比較は、他の収容所の死者数や火葬能力などを知る必要があるため難しいが、比較に必要な情報を与えてくれる収容所が一つある。

グーゼン収容所はマウトハウゼン強制収容所群の一収容所であった。マウトハウゼン、グーゼンはオーストリアにある。グーゼンは3つの収容所から構成されていた。1941年2月、グーゼンでは、そこでの死を処理するために、トプフのダブルマッフル炉、2つのオーブンが設置された。その後、オーブンが追加されることはなかった[66]。1943年3月以前、アウシュヴィッツにはトプフのダブルマッフル炉が3基あり、グーゼンの3倍の火葬能力があった。1942年には、グーゼンでは7,410人の死亡があった[67]。1942年には、登録された捕虜の死が44,000人、さらに1,100人のソ連人捕虜が死体安置所の登録に記録されている。これらの死亡は争点になっていない[68]。到着時に殺された非登録囚人はこの数字に含まれていない。したがって、1942年には、アウシュビッツでの死亡者数はグーゼンの6倍で、火葬能力は3倍であった。また、両収容所の死者数の最高値を3ヶ月連続で調べた結果も明らかになった。アウシュビッツに登録された囚人の死者数は、1942年8月から10月までの3ヶ月間で最も多く、21,900人であった。グーゼンの3ヶ月間で最も多かったのは、1942年12月から1943年2月までの3,851人の捕虜の死である。このように、アウシュビッツの登録囚人の最高3ヶ月間の死亡合計は、グーゼンの6倍であった。

これらの死亡統計を比較すると、アウシュヴィッツは、火葬能力を6炉から12炉に倍増すれば、グーゼンを上回る死亡率に対応することができたことがうかがえる。もし、アウシュビッツが本当に46基の追加炉を必要とするならば、それは既存の9倍近い拡張であり、グーゼンは少なくとも12基の炉に拡張する必要があったのである。しかし、そのような拡張は行われなかった。

その証拠に、グーゼンのオーブンのデータは、それぞれのオーブンが一日平均約26体を焼くことができることを示しており、両方の炉を合わせると、少なくとも一日あたり52体、一ヶ月あたり約1500体を焼くことができた[69]。しかし、後述するように、このオーブンもこの数値を大幅に上回る可能性がある。グーゼンの月間死亡者数の最高は1,719人だった[70]。つまり、アウシュビッツの6つのオーブンは、1ヶ月に約4500体を処分することができたのである。アウシュビッツの登録囚人の月間死亡者数の最高は、1942年9月の9,000人であった。しかし、1941年10月の時点で、建設管理部は15台のオーブンを追加で発注していた。マットーニョがこれらのオーブンの焼却能力を1日20体と低く見積もったとしても、1942年半ばまでに設置されていた6つのオーブンと追加された15体によって、当局は1日420体、1ヶ月約12,500体を処理することができたことになる。

もし、これらのオーブンに関する否定派の説明を信じるなら、当局は登録された囚人たちが毎月3万人死ぬと予想していたことになる! もちろん、これは、これらのオーブンの火葬能力を低く見積もる否定派が正しいことを前提にしている。唯一の説明は、収容所管理者がこれだけの死を予期していたが、登録された囚人についてはそうではなかったということである。1943年初め、6番目の火葬場建設の可能性を調査する試みが行われたことが、より確かなものとなった。1943年1月29日、火葬炉建設管理部とトプフ&サンズ社との会談の結果、同社は6番目の火葬炉のスケッチを作成するよう指示された。スケッチは2月前半に建設管理部に届けられ、アウシュヴィッツ収容所司令官には、この話し合いのことが伝えられた[71]。

この議論が行われていた頃、アウシュビッツでは1942年の夏と比較して、登録囚の死亡率が低くなっていた。死の本には、1943年1月の登録囚人の死亡が約3,000人分記されている。1942年11月と12月の間に、同じような数の登録捕虜が死亡していた[72]。したがって、1942年11月から1943年1月までの登録捕虜の死者数9,000人は、1942年8月から10月までの死者数21,900人の半分をはるかに下回っている。4つの新しい火葬場は、近い将来、稼働する予定だった。最初は1943年3月に運用を開始することになる。したがって、否定派の低い試算によれば、月3万人のオーブンの総火葬能力で、これらの議論が行われていた当時の月別登録死亡者数の10倍を処理することができる。では、なぜ収容所当局は、まもなく稼働する4つの火葬場に加え、もう1つの火葬場を建設しようとしたのだろうか? その答えは、トプフの代表者である技師でオーブンの建設者クルト・プリュファーが、この新しく提案された(しかし建設されなかった)火葬場に関する議論のために収容所にいた日付、1943年1月29日にある。この同じ日、建設管理部は、(1)火葬場IIに「ガス室」があるとするメモを発行し[73]、(2)火葬場IIでは、死体焼却と「特別処置」が同時に行なわれうるという別のメモを発行した[74]。

特別処置[Sonderbehandlung]とは、囚人の殺害や失踪を意味する言葉であった[75]。数週間後の 3 月 2 日、プリュファーは建設管理部に手紙を送り、彼の会社は火葬場IIの「青酸の痕跡を示す装置」について問い合わせていた[76]。青酸はガス室で使用された致死性の毒ガスであった。同じ日に、労働者の報告書に、クレマIVに「ガス室」[Gaskammer]があったと書かれている[77]。

火葬場が作られた理由を示す最も良い証拠は、その建設に携わった人々に要求された秘密性であろう。1943年に発行された建設管理部指令108号は、1942年6月19日に発行された指令35号を思い出させるものである。「火葬場の計画は厳重に管理されなければならない。どんな計画も作業部隊に渡してはならない...そして、すべての計画は使用しないときは鍵をかけて保管しなければならない...」と述べられている。メモの重要な部分にはこう書かれている。「さらに、我々は極秘にしなければならない経済的・軍事的な課題を扱っていることを指摘しなければならない[geheimzuhaltende]」 [78]このメモは、火葬場の建設が死体処理のためだけであるなら、なぜ多くの秘密保持を必要とする経済的軍事的任務とみなされるのかという疑問を投げかけるものであった。このメモの中で、wehrwirtschaftlicheとgeheimzuhaltendeという重要なドイツ語の単語にだけ下線が引かれている。このメモが意味を持つのは、これらの建造物が死体処理以外に何か秘密の目的に使用される場合だけである。また、このメモは、最初の指令が1942年6月19日に出されたことに言及することで、火葬場の建設とチフスをさらに切り離している。チフスの流行がアウシュヴィッツを襲ったのは、メモが発行された2週間後の1942年7月3日であった[79]。

▲翻訳終了▲

このジマーマンの記述はやや不審な箇所があります。それはユダヤ人の絶滅をビルケナウに新設された四つの火葬場のガス室で行うことに決定した時期はいつか? です。ジマーマンは以下のように述べます。

1942年10月13日、建設管理部長は手紙で次のように述べている:「新しい火葬場の建物の建設に関しては、特別行動による状況のために、1942年7月にすぐに開始する必要があった」[55]。この手紙には、「特別行動」の結果、火葬が必要な死体が出たことが明確に書かれている。

「特別行動」がユダヤ人絶滅を指すことについては異議はありません。しかし、1942年7月にビルケナウの火葬場でユダヤ人の絶滅作戦で出た遺体を焼却処分することを決定した、と言いたげなジマーマンの記述には異議があります。この時期にはまだ、ビルケナウ敷地外の農家を改造した「ブンカー」での犠牲者遺体を焼却処分する話にはなっていなかったはずだからです。

ヘスの自伝を読むとわかりますが、ブンカーでユダヤ人絶滅を始めた当初は、そこから出た遺体は埋葬処分すること以外考えていなかったのです。

 屍体は、隣接する草原に深くて長い壕を掘って埋葬する。焼却という事はその時点でまだわれわれの念頭に浮かばなかった。われわれは、適当なガスを濃縮化すれば、そこに既存の屋内で、優に八〇〇人は殺害できると計算した。この計画は実際ぴったり合った。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』より

それが、焼却処分に変わるのは次の通りです。

 一九四二年夏にはまだ、屍体は大量埋葬壕に埋められた。その夏の終わり頃になってはじめて、われわれは、焼却ということを始めた。最初は、巻木の山の上に役二〇〇〇体の死体をのせたが、後には、それ以前に殺したもので再び土をとりのけた屍体を、壕の中で焼いた。焼却には一は廃油が用いられたが、後にはメタノール油にかわった。壕内では、ひっきりなしに、従って昼夜をとわず焼却が続けられた。

同著より

そして、その焼却処分をビルケナウに建設中の火葬場で行うことになった理由が語られます。

 さて、戸外での最初の屍体焼却の時、すでにこのやり方は、長く続けられないことが明らかになった。悪天候や風の強い時など、焼却の匂いはあたり数キロにひろがり、周辺の住民全部が、党や行政当局の反対宣伝にもかかわらず、ユダヤ人焼却のことを話題にしたからである。

<中略>

 さらに、防空隊も、夜陰にも空中で見えるこの火に対して抗議を申し入れてきた。しかし、つぎつぎ到着する移送者をとどこおらせぬためには夜も焼却をつづけねばならなかった。

<中略>

 こうした理由で、全力をあげて計画を推進する一方、結局、大きな火葬場が二つ建てられ、ついでは一九四三年にはそれより小規模のもう二つが追加された。

同著より

時期を明確にヘスは記述していないのですが、「特別行動」がユダヤ人の絶滅遺体をビルケナウの火葬炉で焼却処分することを決定した理由にはなっていないことは確かでしょう。

では、「新しい火葬場の建物の建設に関しては、特別行動による状況のために、1942年7月にすぐに開始する必要があった」とは一体どういうことなのでしょうか? 実はこれにも、ヘスの自伝に考察のヒントがあります。

 こうして、一九四二年十一月末までには、以前の(註:ブンカーのある場所に作られた)大量埋葬壕が全てカラになった。それらの壕に埋葬されていた屍体は、一〇万七〇〇〇体にのぼる。この数には、一番最初から焼却開始の時期までに、ガス死させられたユダヤ人移送者だけでなく、一九四一年から四二年にかけての冬期、看護室脇の火葬場がかなりの期間使用中止されていた時に、アウシュヴィッツ収容所内で死亡した抑留者の屍体も含まれている。さらにそれには、アウシュヴィッツ収容所内で死亡した抑留者も全員含まれている

同著より

つまり、「特別行動による状況のために、1942年7月にすぐに開始する必要があった」とは、大量埋葬壕だけでは遺体の埋葬が追いつかなくなる、と予想したのではないかと考えられるのです。要するに、ブンカーでのユダヤ人絶滅のために大量埋葬壕を用意したので、「それなら収容所内の全部の遺体も一緒にそこに埋めてしまえ」と考えたのです。ところが、どんどんユダヤ人の移送が多くなってきて、他の死亡遺体も一緒に埋めていたら、埋葬壕が溢れかえってしまう恐れが出てくるので、ユダヤ人絶滅以外の死亡遺体を処分するための火葬場を、ビルケナウに早急に建設する必要が出てきたと判断したのではないかと考えられるのです。そう考えないと、時期の辻褄が会いません。

私自身も以前は、ビルケナウの火葬場の火葬炉が多いのは、ユダヤ人絶滅を前提してのことだと思っていましたが、ユダヤ人殺害だけをブンカーで行って、その遺体をビルケナウの火葬場に運んで焼却処分するのは実際効率悪すぎるとしか思えません。その上、主収容所の火葬場1で既に、火葬場に併設したガス室で集団殺戮を行っているのですから、ビルケナウの火葬場にも同様にガス室を併設する案など速攻で思いつくはずです。

それと、彼ら親衛隊は、火葬場での処理時間がかかりすぎることを知っていたのです。それもあって、だからこそ最初はユダヤ人絶滅の処理遺体を火葬処理することなど考えも及ばなかったのです。ユダヤ人絶滅遺体は数が多過ぎて、そんなの無理に決まってる、と。だから、最初はそれなら埋めて仕舞えばいいじゃんか、となって単純に埋めていた。そしてそこに他の死体も混ぜていた。

しかしヘスが述べた事情で、埋葬を続けるわけにもいかず、だからと言って野外火葬もできなくなったので、それでビルケナウの火葬場で、となったのだと思います。だったらガス処刑も、となって当たり前だと思います。それがおそらく1942年10月以降です。図面上の変化が現れるのは1942年12月ですが。

どうしても、反・修正主義者は、修正主義者に反発するあまり、あれもこれも「ユダヤ人絶滅」「ガス室」の証拠のように考えたがる傾向があって、多少辻褄の合わないことを主張する場合があります。私もその一人ですが、自分で言ってて「?」となってるケースもしばしばあります(笑)

なお、上記にある「特別行動のための入浴施設」の件は、ブンカーで野外焼却をすることになったので、それがプリュファーの耳に入ったかあるいは相談を受けたかで、モギリョフに納入する予定だった火葬炉をアウシュヴィッツに導入する話になっているようには、その書簡からは読めます。もちろんこれも「特別行動のための入浴施設」はブンカーのガス室を指すことに異論はありません。

しかしこれは、野外火葬とは別の案だっただけだと思われます。所長のルドルフ・ヘスはヒムラーからアイヒマンを通じて、埋葬遺体を焼却処分せよとの命令を受けたのち、直ちにヘウムノ絶滅収容所の視察に行きます。これはソ連東方地域の埋葬遺体の焼却処分を実行した1005部隊を指揮したパウル・ブローベル大佐のやり方を見学するためでした。

しかも実際に実施されたのは、野外火葬でした。したがってジマーマンの言うような「この新しいオーブンは、おそらく火葬場が建設されるまでの間、一時的に使用されることを想定していた」ではありません。単純に、焼却処分方法の別の案だっただけに過ぎないでしょう。

以上のように、ジマーマンの意見にも慎重に批判的検討を加える必要はあるのです。

>>(3)キャンプの拡大、オーブンの耐久性

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