アウシュヴィッツの様々な議論(2):クレマトリウムⅠの捏造ではなく復元の話。
今回の話は、以前にもTwitter否定論集で説明しています。
ですが、否定派が認めるわけはありません。否定派の主張は、あくまでも
ガス室は断じてなかった
なので、この「クレマトリウムⅠのガス室は戦後の捏造」説を絶対に譲ったりはしません。否定派にとっては、ガス室なんかそもそもなかったのであり、戦後にソ連かポーランドがでっち上げで作ったのである、というストーリーは変わることはないのです。
当時の図面(初期の火葬炉設置時、防空壕変更時、煙突の変更時)もあれば、火葬炉があったんだから、煙突は再現だってわかるだろ、……というような理屈でわかる話すら否定派には通用しません。否定派には考える頭脳というものがないのか? と思うほどです。
そして奴らは平然とこう宣うのです、「アウシュビッツ博物館も現在では戦後に作ったことを認めている」と。ここまで来ると、どう考えても否定派は故意に嘘・デマを広めているようにしか思えなくなってきます。奴らは単に揚げ足を取りたいだけであり、戦後の捏造だという見解を広めたいだけであって、事実はどうでもいいのではないかと。……か、あるいは、根本的に思考形態が全然違う異人種なのではなかろうか? とさえ思えてきます。
一応ここで簡潔に、整理のために説明するとすれば以下の通りです。
1939年にドイツがポーランドの西半分を占領。
1940年にドイツはポーランドのオシフィエンチム郊外にあったポーランド軍施設敷地を利用して、アウシュビッツ収容所(アウシュヴィッツⅠ)を建設。
同年、もともと火薬庫であった場所に死体置き場、及び火葬炉を設置。この場所をクレマトリウムⅠ(火葬場1)と呼ぶ。
1941年秋、クレマトリウムⅠの死体置き場をガス室として改修・利用開始。
ガス室は1942年12月頃使用停止、火葬場は1943年7月頃使用停止。
1944年半ば以降に、クレマトリウムⅠを防空壕に改修(煙突の撤去、ガス室の天井の穴を閉鎖、内部構造の変更、など)
1946〜47年頃にかけて、ポーランドにより防空壕を再び閲覧用のガス室に再現工事(煙突、天井の穴、ガス室などの再現)。
1948年頃からアウシュヴィッツ博物館として利用開始〜現在に至る。
この順番をしっかり頭に入れて下さい。もう一つ付け加えると、このクレマトリウムⅠのガス室は、ユダヤ人絶滅政策用のガス室ではありません。一説によると、このガス室では一万人も殺されていないだろうとの事です。
今回は、先ずはHCサイトが批判の対象としている、否定者のサイトの記事から翻訳しますので、奴らが何を言っているのかとくとご覧下さい。
▼翻訳開始▼
2015年9月5日(土)
アウシュビッツⅠの「ガス室」に関する議論に終止符を打つ
アウシュビッツⅠの「ガス室」の存在を主張する愚かな「議論」を永遠に終わらせる時が来た。
アウシュビッツⅠの疑惑の「ガス室」は、観光客に見せられた偽の「煙突」を備えている。
アウシュビッツⅠの「ガス室」と疑われている。 ドイツの敗北後の1945年に撮影されたもので 「煙突」はなかった。
この「ガス室」は、文字通り何百万人もの無防備な観光客が足を踏み入れたアウシュビッツの伝説の中で、今でも「メイン」の観光名所であり、最初から最後まで戦後の捏造であることをはっきりさせよう。
疑問に思った人は、ホロコーストの語り部の自作自演でも相談してみてはいかがだろうか。
ホロコーストの第一人者であるロバート・ファン・ペルトは、その著書『アウシュヴィッツの論拠:アーヴィング裁判の証拠』で次のように書いている。
「その煙突とガス室で、火葬場は収容所内を見学する際の厳粛な締めくくりとして機能している。訪問者は、彼らが目にする火葬場が大部分が戦後の再建であることを知らされていない」
「戦後、アウシュヴィッツが博物館に生まれ変わったとき、複合施設全体の歴史を、その構成部分の一つに集約することが決定された。大量殺人が行われた悪名高い火葬場は、2マイル離れたビルケナウの廃墟であった。委員会は、記念の旅の最後に火葬場が必要だと感じ、火葬場Ⅰは、ビルケナウの焼却炉の歴史を語るために再建された。この簒奪のプログラムは、かなり詳細なものであった。ビルケナウの究極のシンボルである煙突を再現した;屋根には、チクロンBを下のガス室に注ぐためのように、4つのハッチ付きの開口部が設置され、3つの炉のうち2つはオリジナルの部品を使用して再建された。これらの修復を説明する標識はなく、当時の様子も記されていないし、観光客がこの建物を見学しても、ガイドはそのことを黙ったままである」
- ロバート・ファン・ペルト『アウシュヴィッツの論拠:アーヴィング裁判の証拠』(インディアナ大学出版局、2002年、ISBN 978-0253340160)、121ページ。
だから、そこにあるんだ、一番確かな人がそう言ってるんだ。
アウシュビッツⅠの「ガス室」にあるすべてのもの、オーブン、取り外されていない煙突、天井の「チクロンB挿入穴」は、戦後に追加されたものだ。すべてだ。
これ以上の議論はやめよう。
興味あることだが、アウシュビッツ博物館は、長年にわたってこの「ガス室」についての立場を着実に後退させてきた。
2006年まで、アウシュヴィッツ博物館の公式サイトは、この「ガス室」が最初に使用されたのは「1941年の秋」であり、「何千人もの新入ユダヤ人と数人のソ連の捕虜のグループを殺害するために使用された」と主張していた。
これは、2006年のアウシュヴィッツ博物館のウェブサイトによれば、1943年7月まで続き、「焼却炉、煙突、一部の壁は解体され、SSの男たちがチクロンBを流し込んだ屋根の穴は封鎖されました」
「戦後、博物館は部分的な再建を行いました。煙突と2つの焼却炉はオリジナルの部品を使用して再建され、ガス室の屋根にはいくつかのも再現されました」
だから実際には、公式のアウシュビッツ博物館は、2006年には早々に「ガス室」が再建されたことを認めたが、それでも実際にはガス室だったと主張し続けていた。
インターネットの発達はこれらの主張を妨害し、2012年までにアウシュビッツ博物館は、アウシュビッツ第一「ガス室」に関するウェブサイトの記述を以下のように更新した。
アウシュビッツ博物館の公式ウェブサイトでは、建物が「再現」されていることを再び認め、「ガス室」と呼んでいたが、2006年のように詳細や稼働日についてはあまり積極的ではなかった。
2015年、アウシュヴィッツ博物館のウェブサイトは、アウシュヴィッツⅠ博物館のページを再び「更新」し、「ガス室」についての言及を完全に削除したが、別の資料によると、「実験用ガス室」として使用されたと主張している。
というわけで、とはいえ
- ホロコーストの語り部たちは、「煙突、オーブン、屋根に開いたザイクロンBの穴、ドア」はすべて1947年に建てられたものであることを自由に認めている;そして
- この部屋を「ガス室」として使用することの問題点は、多少の論理性があれば誰にでも明らかである。例えば、この部屋はキャンプ病院(!)の正面玄関の目の前に位置しており、幹線道路や通行する地元の人々から丸見えである;
. . . ホロコーストの語り部は、「ガス室」として使用されたと今でも主張している. . . くだらないことを信じている人がどれだけ愚かなのか疑問に思わざるを得ない。
Posted by ピーター・ウィンター at 8:33 AM
▲翻訳終了▲
▼翻訳開始▼
アウシュヴィッツ火葬場1ガス室についてのピーター・ウィンター
修正主義者のブロガー、ピーター・ウィンターは、「アウシュヴィッツⅠの『ガス室』」についての議論を、20年以上前から知られていること、長年の常識であること:アウシュヴィッツ主収容所の火葬場とそのガス室は、戦後、ポーランド人によって再建されたものであること、を簡単に伝えることで終わらせようと考えている。 この問題は、70年代、80年代には、少しは盛り上がっていたかもしれないが、1989年にジャン・クロード・プレサックが『アウシュヴィッツ・ガス室の技術と操作』133頁で火葬場1の再建についての記述を提供したことで決着がつき、90年代には「主流」となっていた(例えば、デボラ・ダワークとロバート・ヤン・ヴァンペルトは、アウシュヴィッツの第一火葬場の再建について説明している。1270 to the Present in 1996, p. 400 in the German edition)。
ピーターが「暴露」を発表するのは十年か二十年遅すぎる。
それに、復元とは、元の状態に戻すことであって、以前は存在しなかったものを建てることではないということを理解していない。彼は、自分の誤った立場を支持するために、ヴァンペルトの『アウシュヴィッツの論拠』から復元についての抜粋を引用しているが、これは次の段落でヴァンペルトによってバラバラに裂かれている(もちろんピーターは省略している)。
ここで起きたことを要約してみよう。アーヴィングは、ヴァンペルトとDworkの『アウシュヴィッツ、1270年から現在まで』の中のかなり明確な段落を誤解していたが、この段落は『アウシュヴィッツの論拠』の中でヴァンペルトが反論している。リビジョニスト奨学金の最高傑作である。
ピーターはさらに、アウシュビッツ州立博物館は「長年にわたり、この『ガス室』についての立場を撤回することを着実に余儀なくされてきた」と主張している。それなのに、アウシュビッツ州立博物館は2001年に第1火葬場がソ連の捕虜やユダヤ人の殺人ガス殺戮に使われていたこと、戦後に再建されたことを説明しており、現在も同じように説明している(複数リンク)。それらは、第1火葬場で殺されたユダヤ人の数について、より抑制されているだけである(「しかし、これらの輸送は公式の登録には現れておらず、ほとんどの場合、口頭での命令で彼らの死に向かって送られたのであろう。そのため、何人のユダヤ人が殺されたのかはわからない」)、ホロコースト否定派の活動とは無関係なことである。
アウシュヴィッツ国立博物館は、調査員や研究者に向けて火葬場の再建を隠していなかったことに注意して欲しい。元アウシュヴィッツ国立博物館長のカジミエ・スモレンは、1964年4月22日のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で、第1火葬場の再建について証言している。ロベール・フォーリソンは1975/76年にその情報を得た。プレサックは1979-1984年に情報を得ることができた。フランチシェク・ピーパーは1992年にデヴィッド・コールに再建について説明した。
Posted by ハンス・メッツナー at 2015年9月10日(木)
▲翻訳終了▲
で、この話、どうしてしつこく言われるようになったかというときっかけはこの動画です。
ニコニコ動画はこのデヴィッド・コールのビデオを規制していないので、日本では見られるわけですが、多分YouTubeにはないでしょうね。メインはこの次の2番目の動画からですけど、この動画(当時はビデオテープで出回っていたらしい)に怒ったのが、アウシュヴィッツ博物館のフランチシェク・ピーパー博士でした。こちらから引用しましょう。
このビデオ、非常に胡散臭いというか、一番気になるのは、なぜコールはクレマトリウムⅠが改修されていたことを知っていたのか? です。この数年前にはカナダでツンデル裁判があり、この件も裁判中で取り上げられていたようですし、そしておそらく一番最初に改修の件をかぎつけたのはフォーリソンの筈。そしてフォーリソンは誰もが知るリビジョニストの先導役のような人でした。邪推ではありますが、どうもフォーリソンの影がちらつく話なのです。ツンデル裁判にフォーリソンが関わっていたのは周知の事実ですし、ツンデル裁判より前にあったフォーリソンの裁判でポーランド人の工事関係者が再現工事があったと証言もしているのです。そして、1990年代後半になると、このビデオのせいで有名になったコールは、過激なユダヤ人グループに猛抗議を受けた影響で、一旦ホロコーストを認めてリビジョニストから足を洗ったらしいのですが、その際にフォーリソンが激怒したという話も聞いています。もともと、フォーリソンがクレマトリウムⅠに目をつけた最初の頃に「案内係が当時のままである、と言っていたがそれは違った」と既に話までしているのです。
さて、フォーリソンの話はともかくとして、クレマトリウムⅠのガス室は戦後の捏造である、という話はあり得るのでしょうか? 先ず判明しているクレマトリウムⅠにガス室があるという話の順序を考えましょう。まず、例えば以下のような図面があります。日付は1941年9月25日とあります。
(J-C・プレサック、『アウシュヴィッツ ガス室の操作と技術』、p.151)
ガス室であるとされる箇所は、Leichenkeller(死体置き場)と書かれています。早合点する否定派のある人はこの図面を見て「なんだ、Leichenkellerと書いてあるじゃないか。やっぱりガス室はなかったんだ!」と言うのですが、ルドルフ・ヘスは自伝にこう書いています。
この自伝は、戦後に書かれたものなので、信用性に問題があると考えても、図面にガス室と明示していないことはこの説明に矛盾しません。ヘスは、「看護室近くの火葬場の屍体置き場がガス室に利用された」と書いています。しかし、肝心なことはそこではなく、この図面は何か? と言うことです。
この図面は、右下に書かれている通り、火葬炉担当会社であるトプフ・ウント・ゼーネ社によるもので、何の図面かというと、図面上の「E」の字のようになっている火葬炉(ダブルマッフル炉)を増設するための図面なのです。プレサック本はこれを明示的に書いてないので分かりにくいのですが、図面の左側の炉には「Neuer Ofen(新炉)」と書いてあるのです。右側の二つのダブルマッフル炉には「Ofen」としか書いてありません。こちらの二つの古い方は1940年からあったものです。
何故、1941年9月25日の図面で、火葬炉の増設が計画されているのでしょうか? 1941年9月初頭と言えば、ブロック11の地下室を用いて、アウシュヴィッツで初めてのチクロンBによるガス処理が行われています。そしてヘスの自伝を引用したように、ブロック11は換気に時間がかかるので、このクレマトリウムⅠを使うようになった、とあるのです。すなわち、ガス処理により死体が増えると考えられたので、火葬炉の増設の必要性に迫られた、と考えても何もおかしくありません。時期が見事に一致しているのです。しかも、この図面、おそらくアウシュヴィッツ博物館内部関係者以外で最初に発見したのは、1975/76年頃のフォーリソンです。要するに、ヘスの証言が、自伝執筆から約30年も経って「裏付け」られているのです。
否定派は、きっとこのことに対して次のように言うでしょう、火葬炉の増設とガス室の関係は何も立証されていない、たまたま火葬炉を増設する計画があっただけかもしれないのであり、それをガス室と強引に結びつけているだけである、のように。もちろん、その可能性は否定しません。しかしながら、時期が一致しているという事実も否定出来ないでしょう。もし仮にヘスの自伝の記述が五分五分の信用性しかなかったとするのであれば、この図面により少なくとも六分四分くらいには信用性が高まったと言えるのではないでしょうか。
あと、簡単な話をすれば、煙突も図面にある通り存在したわけですし、火葬炉があるのに煙突がないだなんて考えられない話ですし、また図面にLeichenkellerがある場所は、アウシュヴィッツ解放時には防空壕だったわけですし、この二つを考えるだけでも「再現工事をしただけである」との話には何の矛盾もありません。さらに、案内係が「当時のままです」とだけ観光客に案内し、再現されたものだということを知らなかったという事実は、単に案内係の人が知らなかっただけであり、否定派がいうように事実を「隠していた」と説明する必要もありません。その上付け加えれば、「アウシュヴィッツ博物館も現在は戦後に作ったことを認めている」というような話は、フランチシェク・ピーパー博士の言うように1957年の本の記述や、1964年4月22日のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判での証言で、単なる言いがかりに過ぎないこともわかります。
もしも、ポーランドによりガス室の再現工事が行われなかったと仮定してみましょう。その場合には、「現在は防空壕として見ることができますが、実はここはもともとはガス室でした」と案内されただけでしょう。そして否定派は同じように言うのです、「図面には死体置き場としか書いていないじゃないか!デタラメだ!」と。奴らはただそう言いたいだけなのです。以上。
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