ホロコースト否定論の小ネタへの反論シリーズ:(3)アルマ・ロゼは、アウシュヴィッツに着いて何故すぐ殺されなかったのか?
今回の記事は短いです。
実は超長い記事を作成中だったのですが、あんまりにも長いというか、最近はめんどくさがりの悪癖が酷くてサボりすぎ💦 そこで短い記事を今回は一つ。
以前にはてなブログの方で、YouTubeやニコニコ動画にある「ホロコースト論争」チャンネルの動画を徹底批判した時に、その動画内で有名なクラッシック音楽の作曲家であるグスタフ・マーラーの姪に当たるアルマ・ロゼのことが触れられており、私はほんの少しだけネットでググって調べた程度の知識で以下のように書きました。
14:02/アルマ・ロゼはアウシュヴィッツで病院にいたのか?
<中略>
で、本題ですが、加藤はアルマ・ロゼの日本語Wikipediaの記述を訝しげに「アウシュヴィッツに病院があったことを書くのは正史派的にまずいから隠したのかもしれない」的に述べていますが(病院は実際にあったので別に不味くも何ともありません。そこでは治療も行われましたし、病人の選別もありましたし、注射で病人を殺したりもしていました)、この日本語Wikipedia記事は実は英語Wikipedia記事を翻訳したものであることは明らかだったりします。せめて、その程度は調べて英語版に文句を言ってもらいたいものです。しかし、アルマ・ロゼは有名で、日本語Wikipediaにすら参考文献として伝記が上がっているほどなのです。
Youtubeでは、アルマ・ロゼのバイオリン演奏を聴くことも出来ます。
私はクラッシックの趣味はないので演奏の評価はできませんが、アウシュヴィッツ・オーケストラではファニア・フェヌロンが映画化までされて有名なのですが、アルマ・ロゼの方を映画化しろとの声もあるのだとか、そうした話を見たことはあります。……脱線ばかりですみません。
で、それくらい有名なので、伝記を読まなくとも、それなりにネットだけでもWikipedia以外のページもたくさんあります。例えば、以下のページを読めば、ロゼがアウシュヴィッツに到着して最初はどうなったかはちゃんと記述されているのです。
そう、彼女は病院ではなく、医療実験棟に送られたとあるのです。こちらのページ(註:このリンクは登録を求められることがあります)にも、
とあります。Wikipediaの記述が誤っているのか、これらのページの記述の方が正確なのか、それは伝記なりを読まないとわかりません。しかし加藤は、疑惑の方を強調することにしか関心がなく、事実を調べようとする意思が希薄であることがわかります。上記解説ページは私がこの記事を書くついでに、たかだか数分で調べ出してきたものです。その程度の調べもしないのですから、呆れてしまいます。
……などと、私は偉そうに述べていますが、書いた通りネットでちょっとググって調べただけの情報であり、「Wikipediaの記述が誤っているのか、これらのページの記述の方が正確なのか、それは伝記なりを読まないとわかりません」などと予防線みたいに言い訳していて、ちょっと情けない感じもあります。できれば、上記引用中で紹介しているニューマンの伝記を確認できればなぁとも少しは思ったのですけれど、洋書はハードルが高いので諦めていました。
しかし、今年2024年6月に音楽之友社から、音楽家でノンフィクション作家のウィルソン夏子氏による『マーラーの姪 アウシュヴィッツの指揮者、アルマ・ロゼの生涯』が出版され、Xでもその情報が流れてきたので、日本人が日本語で書いた本で情報を確認出来そうだと、機会があれば読んでみたいと思っていて、ついに図書館で読んできたのです。何故買わないのか?と言わないでくださいね。私にとっては税込2750円の本はちょっと高価なのです💦。それに、ホロコースト関連の本には他にもたくさん興味があるのですけれど、破産しかねないと思って余程のことがない限り、読むのは図書館で済ませ、買うのを出来るだけ最小限にしているのです。
で、これを確認したところ、やはり私も正確な情報を述べているとは言えないことがわかりました。元々「ホロコースト論争」の動画で言及されている内容は、その元になっている英語版ウィキペディアの記事の誤りです。以下のように書いてあります(2024年8月現在)。
これが日本語Wikipediaでは、
となっているわけです(2024年8月現在)。本当にそのまんまであることがわかると思います。ですから、私もよく利用はさせてもらっているのではあるのですけれど、可能ならば、Wikipediaに書かれた情報はちゃんと自分自身で調べるべきではあるのです。特に厳密に議論するような時にはWikipediaは参考以上には使えないと思った方がいいと思います。
私が以前に調べた情報では、アルマは実験棟に選ばれたとなっていて、これらの記述内容とは違うわけですが、ウィルソン夏子氏の本を読むと(出典はニューマンの伝記です)、実は実験棟に選ばれてしまうと、高確率で死んでしまうことがわかります。何故って、それは人体実験の一つであり、避妊施術(不妊手術)を施されてしまうからです。ナチス親衛隊は、ユダヤ人絶滅の一つの方策として、ユダヤ人の子孫を残さないように女性には放射線照射や卵巣摘出などを施す人体実験を実施していました。アウシュヴィッツで有名なのはカール・クラウベルク博士です。
クラウベルクは、如何に低コストで効率よく大量のユダヤ人女性に避妊手術を行うことができるかを研究するために、アウシュヴィッツで女性囚人を使って人体実験していたのです。実験ですから、命の保証なんてありません。これらのクラウベルクらによる不妊施術実験の内容については、私自身で翻訳したポーランドの証言集にあるアリーナ・ブリューダの証言に見ることができます。
ですが、アルマ・ロゼはこの人体実験から奇跡的に逃れることができたのです。彼女がアウシュヴィッツ収容所で亡くなったのは1944年4月5日ですが(死因は諸説あるようです)、それまで生き延びることができたのは、それは彼女が音楽家であったからなのです。
以下に、ウィルソン夏子氏の著書から、アルマ・ロゼがアウシュヴィッツに着いてどのように奇跡的に生き延びることが出来たかについて引用します。
ウィルソン・夏子、『マーラーの姪 アウシュヴィッツの指揮者、アルマ・ロゼの生涯』、音楽之友社、2024年、pp.136ff
第二部アウシュヴィッツ
Ⅶアウシュヴィッツ強制収容所
一九四三年七月――一九四四年三月
今日から、アルマ・ロゼが、この楽団の指揮者になります。
――ビルケナウ女性囚人管理長マリア・マンデル
27輸送列車「57」
一九四三年七月十八日。
ドランシー収容所からアウシュヴィッツへ旅立つこの日、皆が早朝に起こされた。子供たちの多くは孤児だったが、親のいる子でも親から離された。嫌がる子供たちは、ムチで叩かれた。大人たちは、バスかトラックに乗せられるために並んだ。
マーティン(逃避行の同伴者)は、偶然、アルマの姿を見かけた。アルマは黒いドレスを着て、列の終わりになっていたという。これがアルマを見た最後になった(マーティンは、ドランシー収容所から、すぐに別の収容所に移送されるはずだったが、病気だったので、まだそこにいた。のち、彼はフランスの海原近くの収容所に送られ、ユダヤ性も隠されたままで暮らし、戦争を生き延びることができた)。
アルマはパスに乗せられ、ボビニー駅(フランス北部)に着く。厳しい警備の下に、千人ほどがアウシュヴィッツへの輸送列車「57」に押し込められた。詳しくは、五百二十二人(男と少年)。四百三十人(女性と少女)。四十八人(性別不明)(このうちの五十九人だけが、一九四五年まで生き残ったことが判明している)。
この輸送列車に乗ったひとの名簿が、ウェスタン大学の「マーラー・ロゼ・コレクション」のファイルに残されている。名簿には、番号、当人の名前、生年月日、職業欄がある。アルマの番号は「916番」。彼女の名前に誤字があり、生年月日も正しくない。職業欄の「ヴァイオリン奏者」だけが、正しく記入されている。このように、名簿はずさんである。記入すべきひとの数があまりにも多過ぎたため、親衛隊員は、正確にタイプする時間がなかったのだろうか。あるいは、囚人なのだから、正確な記述は必要ない、と考えたのだろうか。とにかくこの名簿では、アルマ・ロゼという名前は、影も形もない。
アウシュヴィッツに向かう列車は、時間通りに朝九時、ボビニー駅を出た。二泊三日の列車アウシュヴィッツの旅である。車内はひとが多すぎて、全員が床に座る余裕がない。トイレは、車両の端の大きなバケツであり、そのまわりは毛布で囲まれていた。
列車が進むにつれて、人々の不安は増していく。家族と別れなければならないのか。どんな仕事を与えられるのか。どんな過酷な運命が待っているのか。「アウシュヴィッツでは、圧倒的多数の被収容者は、死を運命づけられていた」ということを、ほとんどのひとは知らなかった(ハンナ・アーレント)。
三日目の夜、列車は停車した。「出ろ、急げ」。列車を降りると、土砂降りだった。銃が人々を狙っていた。
激しい雨の中を、男は男、女は女の列に並んだ。それから、ヨーゼフ・メンゲレ(ナチスの医者)の前に立つ。彼は人差し指を「右」、または「左」に動かし、強制労働か、ガス室へかの選択をする。「左」に示されたひとは、赤十字の文字の入ったトラックに押し込まれた。そのトラックはガス室に向かった。
アルマが彼の前に立った時、彼は指を「右」に向けた。アルマは、生き残る組に入ったのだ。そして彼女は、十二、三人の女性たちの、小さなグループに並ばされた。
生き残った三百六十九人の男性、百七十九人の女性たち、そしてアルマの小グループは、雨の中を三十分歩く。あるグループは、ビルケナウ収容所へ入っていった。
アルマの小グループは更に歩き、メインのアウシュヴィッツ収容所へと向かった。歩いている間に、親衛隊員は、人々から貴重品を取り上げた。
アルマたちは、アウシュヴィッツの門を潜った。「働けば自由になる」と文字が掲げてある、あの黒い鉄線のアウシュヴィッツの門である。この名前があまりにも有名なのは、ナチスの強制収容所の中で最大であり、ガス室がある絶滅収容所として知られているからだ。
人々がある建物に入ると、「入門式」が始まる。人々は服を脱がされる。ひとつの山から靴を取る。別の山から衣服を取る。次に、髪、脇毛、下腹部の毛が剃られる。次にシャワールーム(消毒浴場)に閉じ込められ、冷水を浴びせられる。シラミと皮膚病をコントロールするためだった。
シャワー室から出ると、服を着る。アルマの囚人服は、胴体の部分を引き上げると、胸当てがついているズボン風のものだった。靴を履く。
この入門式の最後に、生涯消えない番号50381が、アルマの左の前腕に刻み込まれた。
28実験病棟での一言
囚人服を着せられたあと、アルマたちの小グループは、特別な棟(ブロック)に連れて行かれる。そこはこの収容所で最も恐ろしいと言われる、アウシュヴィッツ収容所「第十棟=実験病棟」であった。
女性の人体実験が行われる所である。二階建ての建物に、すでに三百九十五名のユダヤ女性がいた。六十五人の囚人看護師と、それに二十四人ほどのユダヤ人娼婦たちもいた。
「第十棟」に着くと、アルマは、この病棟で何が起こっているかを聞かされる。まず、女性は極度の放射線を浴びせられる。間をおいて、子宮切除の手術があり、卵巣が取り出される。卵巣は実験室に送られ、医者が放射線の破壊的効果を調べる、ということであった。
つまりここは、安価で効果的な(ナチスの表現では)劣等人種の避妊法を見つけることを目的とした人体実験の場だったのだ。
アルマは、愕然とする。このような人体実験が行われていることなど、聞いたことがなかった。放射線を受け、次に卵巣摘出。つまり、下腹部をえぐり取られるのだ。恐怖で身体が動かない、言葉が出ない、というのが普通である。
しかしアルマは、極めて自然に、次の言葉を発した。
「ここの放射線の機械は、最新のものなのですか。そして、手術はどんなふうにして行われるのでしょうか」
アルマは、あたかも施設を訪問しに来た赤十字の調査員のように、一階のふたつの部屋で見た放射線の機械について、そして、手術の方法について、囚人看護師に訊ねたのだった。
死に直面したと感じている時、どうして、こんな質問が生まれたのだろうか。
「こんな場所に連れてこられたのだ。もう私の生命はこれで終わるのだ。仕方がない。運命なのだ、諦めよう」とは、アルマは、一切思わなかった。
この時アルマは、自分の心で思ったことを大切にする母を、思い出したのかもしれない。アルマは、萎んで、枯れ切った花にはならないのだ。アルマには、自分の置かれた状況を、飛び越える力があった。
物怖じしないアルマを見て、「このひと、普通じゃない」と思った囚人看護師は、同情的な好奇心をアルマに見せた。
この囚人看護師は、オランダから来た二十二歳、名前をアイマ・ヴァン・エッソといった。彼女は六月前にここに着き、囚人看護師として働いており、外界で何が起こっているのか知りたいと思っていた。それで、この勇敢な女性と話し始めた。
話していると、相手がオランダから来たことが分かった。そのうちに、どちらも、以前にどこかで会ったことがあったような気がしてきた。
「私、プシホダと結婚していたことがあったの」とアルマが言った時、ついに、この囚人看護師は、このひとがアルマ・ロゼだと知った。
一九四一年と四二年の間に、アルマが数回、彼女のアムステルダムの家に、家庭音楽会をしに来たことがあった。当時、アイマ・ヴァン・エッソの父は医者であり、母は歌手だった。アルマはピアノも弾けたので、その時、母の歌の伴奏をし、娘アイマのフルートの伴奏をしたのだった。
実に、世間は狭い。死に行くと信じて、アウシュヴィッツ強制収容所の実験室に来たアルマは、昔の知人に出会ったのだ。この奇運。ふたりは、どんなに驚いたことだろう。
そして、アルマは、もう一度機転をきかせ、そばにいた囚人監視人のひとりに頼んだ。
死に行く者のお決まりの最後の願いとして、ヴァイオリンを弾かせて頂けないでしょうか。アルマ・ロゼ[ニューマンP222]
アルマの全身全霊は、「生き延びること」に集中されていた。望みは叶えられるかどうか、分からない。結果は、どうなるか分からない。が、訊いてみるしかない。九死に一生。アルマは大胆である。
アイマ看護師も当然、アルマのこの望みを聞いていたのだろう。彼女は、自分の上司(実験病棟の囚人看護師長マグダ・ブラウ)に伝えた。
マグダ上司は、アルマ・ロゼの名前は知らなかったそうだが、ヴァーシャ・プシホダのことは知っていた。当時のユーディ・メニューインのように、プシホダの名前は、誰もが知っていたからだった。
もともとマグダ看護師長は、できるだけ囚人女性たちを助けようとしているひとであった。師長は、実験病棟の管轄であるビルケナウ収容所の事務所に行き、口頭でアルマの要望を伝えた。伝言を紙に書けば、罰せられるからである。「実験ブロックに、ブシホダと結婚していたアルマ・ロゼが来ています。死ぬ前の希望として、ヴァイオリンを弾きたいそうです」
この口頭伝言を受け取ったのは、ズィッピー(愛称)だった。スロヴァキア人の彼女は、一九四二年三月にアウシュヴィッツに来てから、ビルケナウ収容所のメイン・オフィスで囚人秘書として仕事をしていた。
ズィッピーは、自分の上司であるビルケナウの囚人監督カチア・シンガーに伝言を伝える。
カチア・シンガー(彼女も囚人)は、自分の上司であるビルケナウの女性親衛隊で最高位にあるマリア・マンデル女性囚人管理長に伝えた。
マリア・マンデルは、その要望をすぐに認めた。犠牲者の楽器は没収され、新しい輸送車が来る度に、毎日楽器は増え、収容所にはたくさんの楽器が集められていたからだった。
こうして、アルマに一丁のヴァイオリンが与えられた。
「夕方六時に、ここで弾いてください」
ヴァイオリンが、アルマの救世主になった瞬間だった。奇跡というよりほかに言い方がない。アルマの一言を発端にし、実験病棟で、囚人看護師を通して、アルマに念願のヴァイオリンが与えられたのだった。
「音楽は社会への鍵」という両親の信念は、ここアウシュヴィッツでも通用したのだ。
自分のガダニーニを、オランダの恋人レオナルド・ヨンクケースに渡してから八ヶ月が経ていたが、アルマは、与えられた数時間内に、ヴァイオリンを調整する。
「このヴァイオリンは、犠牲者の遺品なのだ。この楽器を生かし、感謝して弾かせてもらおう」彼女は、自分の心を整える。
ヴァイオリンを手にしたアルマは、夕方六時になるのを待っていました。ふたりの女性親衛隊が去り、監視人も去ると、部屋には、外から鍵が下ろされました。ドアの監視をするひとが、「大丈夫です」のサインを出すと、アルマは、弾き始めたのです。
一旦弾き始めると、このブロックの囚人たちは、まったく違う世界に運ばれました。憎しみや非人間的な行為を忘れさせ、彼女の音楽は、私たちの家族、楽しかったことの記憶を目覚めさせたのです。私たちは、長い間忘れていた夢を思い出したのです。誰もが、この場所で、美しさを感じることができるとは、夢にも思っていませんでした。
マグダ・ヘリンガー・ブラウ(囚人看護師長)[ニューマンp221]
まだ全部は読んでないのですけれど、第一印象としては、ウィルソン・夏子氏によるこの本は結構読み応えがあるように感じました。そんなに分量も多くない感じなので、お勧めしたいところではあるのですが、2750円はちょっと高いなぁ、と。その価値はあるとは思いますけどね。
それにしても、ホロコースト否定派は「アウシュヴィッツ収容所が死の収容所なんかでなかった一つの証拠」のように言うアウシュヴィッツ・オーケストラなのですけれど、そんな単純な話では全然ないと言うことを知って欲しいものではあります。否定派はそんな歴史には無関心だとは思いますが。