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子どもをどうにかする前に、大人がどうにかならないものか

障害の当事者として20年あまり、地域の公立小中学校で講演講話の活動を続けております。
子どもさんお一人おひとりの反応に不満はなく…学校の現場でうっかり自分の内心を見せることはありませんけれども…
講演講話の現場で、どうにも困惑させられるのが…
『身体が不自由なmitsuguさんは、一生懸命に頑張っていて偉いと思います』
であるとか
『mitsuguさんを見習って強く生きていきます』
という感想の言葉であったりします。
もちろん、子どもさんが私という人間と出会ってどういう感想を持つかは、子どもさん自身の自由であります。
しかし…私は別に、自分自身を特別な人間であるとは思っておりませんし、また…子どもさんの前で、自分を偉く大きく見せたいわけでもありません。
ただ私が学校現場に出向くのは…
いわゆる健常者と言われる人たちが、学齢期に障害者のことをほとんど知らずに育つように。
障害者である私もまた、障害のない人たちの考え方、感じ方を学び、よく知る必要があると思うからです。
とりわけ、子どもさんの発達成長過程における価値観の形成、倫理観の確立される過程を知ろうと思いました。
子どもさんが私を見つめる視線、私に向かって語られる言葉から、私もまた、子どもさんの心について学んでいます。
こうしたやりとりに、年齢差や立場の違いはあれど、どちらが偉いもないと思うのです。
互いに、自分の知りえないことを伝えて学び、交流するのみのはずが…
多数の子どもを少数の大人が管理監督する…という学校の仕組み上
『大人というのは偉い存在である』
という演出テクニックを使わざるを得ません。
仕事のために必要な事としてそういう演技をしているだけならいいのですが…
先生の中には…あたかも本当に自分が子どもたちよりも偉いかのように錯覚して、悦に入ってしまう人がおられるようです。
『学校』という閉鎖環境における異質なコミュニケーションが、常態化しているように見えます。
私のような身障者の姿が、ある種……スペシャルでミラクルなものとして子どもさんに受け止められてしまうのも…
年長者を無条件に、実際以上に偉大なものとして扱う演出効果の悪影響だと感じます。
年長者を敬う心を、古来から日本人は美徳としてきました。
しかし実際は…子どもさんのお手本になることを心がけ…己を律して生活する人は、社会の中にどれほどいるものか、私には疑問です。
子どもさんに道徳を守れ!と言う前に、胡散臭い道徳を押し付ける前に。
真に『道徳とはなんぞや』と、問うていかねばならないのは、大人の側……
つまり自分自身の方だということ。
子どもに道徳を教えたければ、ルールと同じくらいの愛情を持って当たらねばならぬことを、
大人の側が、よく自覚すべきです。

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