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人を信じる 何かを信じるということ

『信じる』ことの危うさと大切さについて

私は小、中学校の時は養護学校でなくて地域の普通学校に通っていたのです。
それなりに仲の良い友だちもできました。学年の小さい最初のうちはまあまあ楽しくやれてた時期もあったのですが…
私と仲の良いホントの友達だと思っていた同級生も…私と話すときと、健常者同士の友達と話すときとで明らかに態度が違う…って事に気が付いてしまったのですね。
みんな、どこかよそよそしいというか…
ある程度歳を取った今にして思うに、当時の私はクラスの中でも、いわゆるお客さん待遇で、どこかで遠慮されていたんだと思うのです。
私の方も、みんなとのそんな心の距離を埋めたくて焦っていたのでしょうね。必死にテンション上げたり強引に話の輪の中に割り込んだり、ずいぶんと失礼なことをしていたな。と思い出します。
すると当然の結果として今度は、私がいじめの対象になっていきました。
みんなの世話にならないと人並みに過ごせないのに、ズケズケものを言いすぎだ、おとなしくしてろ、ということで。
いじめ、というものは当然、やった側のほうがやられる方よりも圧倒的に悪いわけですが、私自身のケースを考えるに、あの場合に限っては…私の側にもいじめを受けるだけの原因はあったと思うのです。
そんな背景もあって、校内に居場所がなくなり、未熟故の身から出た錆とはいえ、辛い日々を送っていた頃のこと。
いじめが本格化し出した頃から学年も変わり、クラスも変わり、今度は上手くやれるかなと思っていた矢先のある日。
朝の会で担任の先生が、《mitsuguくんの身体に障害があるのは、神様が与えた試練》なーんて話をし始めて…
私自身、恥ずかしいというか、いたたまれない気分になりました。

《mitsuguくんに試練が与えられているのは、mitsuguくん自身に、それに打ち勝つ心の強さや正しさがあるからだ。神様は超えられない試練はお与えにならない》
とかなんとか…私を励まそうとしているのは分かるのだけれど、なんだか持ち上げられすぎて、逆に気持ち悪かったのです。

いわゆる《褒め殺しを受けてる気分》とは、ああしたものだろうと思います
当時の私はまだまだ子どもでしたから、今のように障害を個性として肯定的に受け止め、前向きに過ごすことは、とてもできませんでした。
先生が励ましてくれるのは嬉しかったし、とても有り難かったのですが…

その反面『試練ってなんなのよ!?』って反発と疑問も沸いたのです。
私が生まれ持った身体の障害をどう受け止め、どう過ごすかは、私自身の問題であり、私の決定によって進む道が決まるはず。
たとえ善意からの言葉であれ、私の将来、一生に関わる課題を、試練なんて簡単な言葉で片付けて欲しくない。と強く思いました。
後日、別口の筋から確認したところ、その先生はとても熱心なクリスチャンだということが分かりました。
その先生はとても真面目で、清廉潔白にして公明正大、何に対しても筋を通す人で、生徒からも、保護者からも、同僚からも、とても尊敬され信頼されていたのです。
私も、この先生に叱られたときは、なんであれ自分が悪いのだ、と素直に思えるほど尊敬していました。
ただ一つ《試練》の言葉さえなければ。
何の条例だか法律だかは忘れましたが、もちろん教職員にも信教の自由は認められていますよね。
しかし職務の場においては、あらゆる思想信条宗教に対して、否定も肯定もしてはならない。あくまで中立でなければならない、というルールがあるのだと、後年別の元教師の知り合いから聞きました。
とにかく、この一件があってから私は、世の中の《教師》というものを信じるのをやめてしまいました。
今でも先生には恨みも憎しみもなく、ある面では感謝もしているけれど、考え方の食い違いから、もう頼るには値しないと直感したのです。
子どもながらに、自分の尊厳を本当の意味で護っていくのは、他者には不可能。自分自身に最後まで付き合ってくれるのは、やはり自分しか居ないのだと諦めてしまいました。
自分の人生を他人が評価することほど残酷で無神経なことはありません。
ましてそこに神様まで持ち出してはいけない。神秘まで持ち出してしまっては、もう私が自分の課題を自分の心と頭で感じ、神様の言葉以外のことを自分で考えることができなくなってしまう。

私は別にキリスト様に格別の思い入れはないけれど、一定の敬意は払っているつもりです。

一個人の信徒の思い入れで、ご都合主義のように尊き御名を出されてしまっては、神様に対してもかえって礼を失することになりはしないか。
もしこの世に神様が居て、私の事をいつも見ていてくださるならば。
私自身がさんざん悩んで考え、苦しんだ末に、自分を活かすだけでなく他者をもともに活かしていけるような最善の結論に、自分の力でたどり着くことを望まれているかもしれないと思うのです。

他者から与えられた都合の良い言葉で、自分の心を小さく狭めてはならないような気がするのですよ。
こればっかりはほかの誰かには譲れない一大事なのです。

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