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スマートモビリティ

とある学校訪問の時の一コマ…

『mitsuguさんの乗ってる車いすは、どこで売ってるんですか❓』
というご質問。
その日のお相手は、一番依頼件数の多い学年…いつもの小学四年生から、さらに小さい、小学三年生の子どもさんでした。
心身の成長が著しい時期の子どもさんは、たった一学年、学齢が下がるだけでもかなり小さく、より幼く見えてしまいます。
私が学校訪問に出かける時は、いつもその場に適切な言葉の表現選びや言葉使い、話す早さなどに苦心するのですが…
この時は、普段の講話より少し幼い子どもさんがお相手…ということでしたので、いつもの講話より、さらにゆっくりしたペースで、
穏やかで柔らかい口調を心がけながら、かつ…はっきり聞き取りやすい声で話すことを特に意識しました。
「そうですね。みなさんのおうちの近くにあるようなコンビニや自転車屋さんのように、どこにでも、たくさんのお店がある、という訳じゃないけれど、車いすを作って売ってくれる車いす屋さんも、もちろんありますよ」
というふうにお話ししました。
「車いすを作る時だけじゃなくて、タイヤ交換やバッテリー交換の時にもお世話になります。
急な故障の時なんかにも、車いす屋さんが来てくれますから、ありがたいですね」
一通り説明して、これで充分話し終えたかな。と思ったのですが…質問したお子さんはまだなにか言いたそうにしています。
「まだなにか聞きたいのかな?」
講話をしている時の私は…出来うる限り丁寧な応対を心がけていますし、どんな質問にも真剣に応えるようにしていますが…
それだけに、一人ひとりの子どもさんとの受け答えに時間を取られてしまい、たくさんの子どもさんの相手ができないのが悩みどころです。
一人の子どもさんとのやり取りに、あまり時間をかけすぎてしまうと、後に控える他の子の質問の時間を削ってしまうことにも繋がるので、時間の配分には気をつけないといけないのですが…
まだなにかを話したそうにしている子を、こちらの都合で見ないふりをする…
というのも、話し手として、やってはいけないことのように感じました。
「どんな事でも、話してみてね。ちゃんとお返事しますからね」
と、促してみました。すると…
『mitsuguさんの乗っているような、電気で動く車いすは、ぼくでも買ったり乗ったりできますか?』
という、さらなるご質問が来ました。
すると担任の先生、私がなにか言う前に…
《あのね、こういう車いすは、怪我や病気で身体が不自由な人が乗るものなんだよ。だから、君は乗れないし、元気に歩けるんだから、乗っちゃダメでしょ?》
と、質問した子にお説教を始めてしまいました。
当のその子は、先生に怒られたと感じたのか、ちょっとしょんぼりしているようでした。
まあ確かに…現状の社会、現状のルールでは…
『電動車いすは身障者の生活の道具である』という認識が一般的です。その意味では、先生の認識は、けっして間違っているという訳ではありません。
しかし…その発言が誰かを傷つけたり苦しめたりするものでない限りは、子どもさんを叱ったり否定したりしない。という…
私自身が、自分で講話する時に定めているルールからは、やや外れた流れになってしまいました。
せっかく、その子なりに車いすという道具に興味を持ってくれたのに…
それはおかしい!と、先生からみんなの前で言われたのでは、ちょっと質問したその子がかわいそうだな。という気にもなりました。
そこで…私は一計を案じ…少しズルいやり方ですが、先生にはちょっとだけ悪者になってもらうことにしました。
「電動車いす…乗りたいかい?」
『…うん』
私の声に小さく応える質問者の子どもさん。
「自転車ってあるでしょ。どこの家にもあるものだし、なんなら家族一人に1台持ってることもあるよね。
でも、自転車って、作られてすぐの頃はとても高級品でね。すごい金持ちの人しか持ってなかった。
なかなか自転車が買えない人は…楽をしてズルい。足が動くなら自力で歩けばいい…って言ったそうですよ。
ところが、安くて性能のいい自転車がたくさん売られるようになると、みんなが自転車に乗るようになったんだよ。楽だし、便利だったからだね」
ここで一旦言葉を切りました。
少し間を作り…
「スマートモビリティ、って言葉があります。誰でもが便利に楽しくお出かけができるように、電気で動く乗り物をもっと増やしましょ。っていう、将来の街の考え方です。これは…身体が不自由な人も、そうでない人も、みんなが同じように乗って使えるものになるはずです」
質問した子の顔がパッと明るくなります。
良かった。
「私の使う電動車いすも、今は身体が不自由な人だけが乗るものだけど…もう少し…あと何年かしたら、君にも乗れるかもしれない。そしたら一緒にお散歩できるといいですね」
と返事しました。
先生の言葉を全否定して、先生を悪役にした形になってしまいましたが、明るくなった子どもさんの顔を見るに…
この場はこれでよかったと判断しました。
もちろん先生には、講話の後…
「話の成り行きで悪者にしてしまってすみません」
と謝りました。
先生も、
『色んな物の見方や考え方があるんですね』
と言ってくださいました。
その昔…携帯電話が世に出た時も、
『こんなものをわざわざ持ち歩いて、なんになる』
という考えの人は多かった気がします。
私の記憶が確かなら、ノートパソコンやタブレットが普及しだした時も、似たような感じでした。
つまり、便利な道具が無かった時代を過ごした体験のある人は、便利な道具が当たり前に普及した、未来の社会を想像するのが難しい…
ということなのでしょう。
私の足であり、私の分身とも言える電動車いすも…いつかは、私のような身障者だけが乗る特別なもの、という扱いでなく、
誰でも、どんな人でも、みんなが便利に使えて、より日常に身近に感じられる道具になっていて欲しいと思います。
そうすれば車いす屋さんも少しは儲かるでしょうし。

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