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教育は幸せの近道

教育って、誰のものだろう?

障害のある子どもに、教育なんか受けさせても無駄…
という人が、今でもたまにいます。
それでも、かつての昔に比べたら、そんなことをわざわざ口に出す人は、だいぶ減ったと思うのですけど…
いや…声に出して、文字に描いて伝えていないというだけで、心の中でこんなことを考えてる人は、いまだにかなり多いような気がします。

私がまだ20代の若い頃…
『障害児に教育は必要ない』
と、目の前ではっきり口にした人たちは、みな口々に…
『障害児に勉強を教えるには手間も時間もかかる。
同じだけの手間と時間をかけたなら、普通の子どもであれば、ずっと効率よく学ばせられる。
障害児の教育に注力するのは無駄が増える』
と言っていたりしました。
一方で…
『障害のある子は、自分に障害がある状態を選んで生まれてきたわけではないのだから、教育の機会も用意されているべきだ』
と言う人もいます。
そして…
『きちんと時間と手間をかけて教育さえすれば、障害のある子も、普通の人と同じように暮らし、同じように考えて…同じように社会に出ていくことができる』
というふうに考える人が、時代が下るにつれて、ぼちぼち増えてきているような気がします。

私も概ね、この後者の考え方に属しています。
障害の有無を理由に、子どもの教育を諦めてはならない。
打てるだけの手は打ち、出せるだけのものは全て出し尽くすべきだと私も考えます。
しかし…
『みんなが同じ』
というのが、全てにおいて素晴らしいのか…と誰かに問われたなら、それには否、と答えたいと私は思っています。
障害のない子が通う学校にしても、学力や能力に差は出てきますし、優秀であるから幸せになれるとも限らなければ、落ちこぼれだから不幸な人生を歩むとも限らない。
という考えです。
障害のある子に教育を…という最初の話に戻ると…
確かに、支援者がどれだけ手間暇をかけたとしても…知力や能力が、大人の思惑通りに発達せず、効率が悪いと感じる場面もあるでしょう。
周りの子と同じように分かるようになること、できるようになることを目指したとしても、それが必ず良い結果に繋がるとは限りません。
では…なんのために学ばせるのか
それはただ一つ
『本人が幸せになるため』
だと私は考えているのです。
たとえ高い知能が得られなくても、花の名前をひとつ覚えれば、それだけ心が豊かになります。
ものの名前が分からなくても、色や形や匂いはわかるでしょう。
人に出会えば思い出が作れます。
目や耳が自由にならなくても、人生には素晴らしい瞬間がたくさんあるはずで…

みんなが同じように機会が与えられたとしても、その結果まで
『みんなが同じ』
である必要は、ないのではないでしょうか。
みんなと同じにはなれないにしても、その子その子に合わせた、自分の幸せを探し、見つけるために…教育というツールが必要になるんだと思います。
たとえば…重い病気や障害で…社会に出るべき年齢まで生きられない…とされるお子さんもいますよね。
しかし、
『まともに大人になれないなら…どうせ社会に出られないなら、この子に勉強なんて教えても無駄』
なんていう判断をする人がいたならば、絶対に、その考えは許されてはならないと思います。
どんな子も、どんな人も…できる限り、わかる限りの知恵と知識を身につけ、経験を詰んで、自分で幸せになる権利があります。
誰かの都合、何かの都合で、子どもさんたちが知恵をつけ、知識を学ぶ機会が奪われてはならない。
子どもから教育を奪うということは
『お前は幸せになってはならない』
と宣言されるのと同じなのではないでしょうか。


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