見出し画像

「人はコンテンンツではない」という現代人が完全に忘れがちな事実

この当たり前の事実を、現代人はもう忘れているのではないだろうか。

当アカウントで何かを発信しようと思うとき、私は自分のどこを切り出そうかすごく迷う。だって私は1人の人間なのだ。生きている。人間は多面的で、迷いや矛盾は常に生じている。

1人の人間と言えど、間逆のことを言うことがあるのだ。だが読者はそれを許さない。私だってそうだろう。読者の側にいるとき、読み物の主義は一貫性を持たせてほしいし、少なくとも1記事の中で矛盾が起きているのはなんだか気持ち悪い。さらにその記事に興味を持ったとき、著作者の人間性が気になってくるだろう。
どんな過去があるのかどんなパーソナリティーなのか。それらを調べていくときに、過去と現在との活動や思想に矛盾する点があっては気持ちが悪いし、なんだか信用できない。

現実世界では同時に全ての人間関係の人と会うことはないだろう。知り合いが大集合する結婚式と言えど、元恋人や海外に住む友達は来ない。全員に同じ一面を見せると言う事はどんなに単調で中身がない人間ですらできないことだと思う。しかし現代に私たちが自分の主義主張を発表しようと思ったら、インターネットはそれをすごく簡単に叶えてくれる。

「発表するジャンルごとにアカウントを分ければいいだろう」と言われたらそれまでであるし、それはもちろん一理ある。
しかし皆様ご存知の通り、1人の人間が主義を主張するからにはその裏に複雑に絡み合った背景や過去、経験が存在しているのである。

例えば、フェミニズムについて発表したい時、論文のように自分の主義だけを客観的に取り上げて書くこともできる。しかし歴史や客観的事実のみを取り上げて書くことは、ある程度の読解力と文章力、思考力のある人間ならできる。しかしジェンダー背景や発達障害などマイノリティー要素が多く、複雑に絡み合っている私ならではの視点があり、事実が存在している。

これを生かさずに書く事は、当事者じゃない人が自分の空馬の他分野に言及するならばさして問題はないだろう。問題どころかプラスもマイナスもない。しかし私は自分が持っている資源を有効に使いたい。そうでなくては私がわざわざ発信する意味などないのだ。ましてや私は文筆家になりたいわけではない。文章書くのなんて本当は苦手だ。それでもこれを書いているのは日々考えていることがあって、私の前に現れる事実があって、もっと社会に必要なものがあるんじゃないかという考えが頭から離れないからだ。

今のところどうやって自分を切り取っていくのか、どんな面をどういう風に丁寧に加工していけば読者を混乱させないのか。答えは出ていない。探り探りやって言って、書きすぎたなぁと思ったり、これを言うべきかどうかで数日悩んだり、インターネットで叩かれて炎上して自信を失ったりしながらやっていくんだろう。あらかじめわかっていたって怖い。だけどやってみなければ、アイディアは頭の中に閉じ込められたままで、誰の助けになることも、未来の誰かの希望になることもない。

覚悟して時に逃げつつ時に引きこもりつつお得意の自閉症をフルに生かしてやっていこうと思う。弱腰だが、先に言っておく。もしも不快に思ったら、不快です、なんてコメント送ってくるんじゃなくて静かにそっと離れてほしい。現実の人間関係はそうじゃないだろうか。

インターネットの海と、現実の世界でダイバーシティが自由に開花するこの時代、自分と違う考えを持つ人だっていくらでもいるだろう。そのどれもに怒るのではなくて、小学校や自分の家庭がどうだったか思い出して欲しい。家族という最小単位の世界の中でさえ、いろんな個性や意外な一面をもつメンバーがちゃんといたはずだ。そのどれもに、あなたはいろんな方法で対処してきただろう。そしてそれは、常に喧嘩ばかりじゃなかっただろう。

1人の人物の中での「矛盾」に関して言えば、あなたも人に言えない秘密や、矛盾仕切った表と裏ととても人間じゃ言い表せないほどの多面性を持った人間なはずだ。もし違うと言うのならば、そこに気づきたくない自分がいるか、自分の過去を忘れてしまっただけだ。

自分の一面だけを切り取って5つ6つのアカウントを使い分けて発信する事は、やろうと思えばできるだろう。だけどそんな凡庸な記事は書きたくない。そんなものはもう今更生み出さなくても、過去のインターネットに溢れている。

何より自分が一番恐れているからこそ、私のハンドルネームは「MUJUN」なのだ。

矛盾は混沌を生み、混沌は多様性を生む。怖がりだからこそ生きており、生きているから怖がりなのだ。矛盾を恐れながらも、他の人間たちから排除されることを恐れながらも、世に出す記事にこそ価値はあると信じたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?