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「我ある、故に我思う」?! - 不毛な信念対立を越えるために

はじめに - 人を信じる?疑う?

世の中には、「人を信じることが大切だ」と言う考え方と、「人を見たら疑いなさい」と言う2つの極端な考え方があるように思います。しかし、「人を信じるか、疑うか」の二項対立で、人を見るのも間違っていると思います。 言い方を変えると、私たちは人を信じられる時も、信じられない時も両方あるわけで、その両方を考えることがより、多くの人たちが納得できる考え方に行き着くのではないかと思うのです。

では、人間はどのような事だったら疑い得ないのでしょうか。そして、どのような事だったら疑い得るのでしょうか。今回はこのことについて一緒に考えてみたいと思います。


我思う、故に我あり


まず、このことを深い次元で考えるために、ある哲学者の言葉を引用してみたいと思います。

哲学者、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」と言う言葉がありますが、この言葉の本当の意味をご存知でしょうか。

これは、あくまでも、私の個人的な理解なのですが、当時、デカルトは、あらゆるものを疑い、疑い得ないものを見つけたいと言う欲望や関心があったようです。そして、最終的に行き着いたのが、この「我」だったのです。自分の身の回りにいろいろなものがあったり、いろいろな考え方があったりするが、そういうものは全て何らかの形で疑うことができるが、それを疑っている「私」と言うのは疑うことができない、「私」と言う存在は疑うことができないと言うものだったようです。


〈私〉も疑うことができる!


しかし、原理的に言えば、「私」と言う存在だって疑うことができます。例えば、「私」が細胞的なレベルで見たら、日々無数の細胞が死に、新しい細胞に入れ替わっているわけですから、昨日の私と今日の私が、全く同じ自分であるかと言うことを断定する事はできず、その意味で昨日までの「私」はいないとも言え、「私」の存在を疑うこともできるわけです。

また、私が私だと思っていたとしても、それは、どこまでを私として含むのかと言うことを考えると、必ずしも「私」と言う存在を規定して、断定することはできなくなってきます。例えば、人間の体内には、無数のバクテリアが存在していますが、この存在なしに、私たちの生命活動は成立せず、その意味で、バクテリアも、ひょっとしたら、私の1部として考えられるかもしれないのです。また、私たちの周囲の空気も人間も物もその他の生命も私と切り離せないという意味で、私の拡張版と言えるのかもしれません。そう考えると、私と言う概念は、とことん広がってしまい、結局は私という存在を疑えるようになってしまうのではないでしょうか(確固たる私を定義できるのか)。

このように、冒頭のデカルトさんの考えと合わせると、この世界は疑い得るもので満ち溢れているのです。


疑い得ないものは何か?


「では、この世に疑い得ないものはないのか」と言う声が聞こえてきそうですが、哲学(現象学)においては、それは意識の中で、「感じちゃったこと」「思っちゃったこと」「考えちゃったこと」と言う意識作用は、疑い得ないと言うことです。

例えば、目の前にりんごがあったときに、たとえそのリンゴが成功な蝋細工であったとしても、成功な3Dのホログラムであったとしても、私がそれを本物のりんごだと思っちゃった事は疑い得ないことなのです。もちろん、「このリンゴは本物のリンゴだと(自動的に)思っちゃった」場合、先ほどのさまざまな別の可能性もあるので、それがりんごであるかどうかを検証することは必要になってきますが、そう思っちゃったこと自体は否定できず、疑いないことなのです。

言い換えると、「リンゴだと思っちゃった」こと(意識作用)は疑い得ないことですが、それが「(本物の)リンゴであるかどうか」ということ(内容)は疑い得るということです。


なぜ「疑い得ないこと」が大切か?


そもそも、なぜ疑い得ないことを見いだすことが重要なのでしょうか。デカルトが必死に疑い得ないものを突き止めようとしたのは、趣味的なものを超えたもっと深い意味があると思うのです。

私の理解では、世の中では、様々な疑い得ることををめぐって、様々な信念対立が起きているわけですが、その信念対立は、暴力や戦争に発展することもあるわけで、こうした対立を防ぐためには、誰もが疑い得ないことからスタートし、お互いに合意できる「共通了解」を生み出していく必要性があると言う前提があったのではないかと思うのです。

その意味で、「そう思っちゃった」「そう感じちゃった」と言う意識作用は疑えないので、そこを思考の始発点にすることが重要であり、いきなりその先の中身を思考の出発点にすると、自然的に信念対立が起きてしまうので、思考の始発点は、誰もが疑い得ない意識作用にしようじゃないか(まずそう思っちゃったことは認めようじゃないか)と言うことにつながったのじゃないかと思うんです。


「我ある、故に我思う」???

なぜデカルトの「我思う故に、我あり」を取り上げたかと言うと、最近、新しい哲学の「新実在論」とか、スピリチュアルのエックハルト•トールさんなどから、「我あるゆえに我思う」と言う180度逆転した考え方が提示されているからです。

すなわち、彼らは私がどう思うと、どう考えようと、どう感じようと、私や物事は存在していると言うことであり、存在と認識を切り離して考えようと言うことを言っているんじゃないかと思うのです。

しかし、これは本当にそうなのでしょうか。

まずは私たちが存在しているから、私たちは物事を考えたりできるのでしょうか。私の考えでは、物事が存在しているということを確信できるのも〈私〉が考えているからであり、考えることができるからこそ、その存在を私たちは確かめられるのではないでしょうか。その逆は無いのではないかと考えます。

「しかし、そうは言っても、もしあなたがこの世に生まれて来なかったら、その後成長して何を考えたり思ったりすることもできないでしょ」と言う声が聞こえてきそうですが、そのように捉えているのも、まずは自分が考えているからこそだと言うと思います。つまり、この存在と意識の問題は、すべて意識の中で展開していることだと言えるのではないでしょうか。

したがって、「我思う故に、我あり」ということを確信でき、その逆は無いのではないかと考えるのです。「我あり」と言う前には、必ず「我思う」ということがないと成立し得ないのではないかと思うのです。


欲望相関性の原理


さらに言えば、人間が何かを認識する場合には、必ず、その奥には同時に「欲望、関心、目的、身体」があると哲学では指摘されています。これを「欲望相関性の原理」と言うわけですが、私たちが自分を認識する場合にも、そうした欲望や関心から切り離されて存在しているのではなく、それがあるからこそ、物事を認識することができると言う原理です。

例えば、目の前に水があり、水を認識している場合には、同時にその水はその人の「水を飲みたい」と言う欲望があるかもしれませんし、「水を植物にあげたい」と言う欲望があるのかもしれませんし、「火を消したい」と言う欲望があるのかもしれませんし、「実験に使いたい」と言う欲望があるのかもしれませんし、「物を洗いたい」とと言う欲望があるのかもしれません。すなわち、私たちの物事の認識は、必ず、何らかの欲望や関心や目的が絡んでいるのです。

つまり、原理的に「我が思わない」と「我がある」と言えないのです。

この「思っていること」(意識作用)、さらに言ったら、そこにある欲望、関心、目的を、思考や対話の始発点にしないと、「存在」については、先ほど指摘したように、いくらでも疑うことができ、対立が生じる可能性が生まれ、話が一向に前に進まなくなってしまうのではないでしょうか。

しかし、私たちが「思っていること」と同時に、ある欲望や関心や目的から思考をスタートさせると、人間である以上、共感、理解できる内容がそこに含まれているわけで、非常に重要な観点だと言えるのではないでしょうか。


おわりに


今回は、人間は、疑いうるものであり、疑い得ないもの持っていると言うことを原理的に考察してみました。そして、こうした観点は、信念対立を抑制する上でも必要な観点であると言うことを強調しました。

しかし、これは同時に、他者との信念対立を抑制する文脈で大切なだけではなく、自分の中での葛藤を緩和するためにも必要な観点だと言えるんだと思います。

すなわち、自分が信じられなくなったら、極端は自分を破滅に向かわせることにつながってしまうかもしれませんし、自分が信じることしかできないとしたら、自己増長して誇大意識も生まれ、絶対主義的な態度につながって、歯止めがかからなくなり、そこから別の信念対立が生まれてしまうかもしれません。

したがって、人間の中にある疑い得ない意識作用と、それと同時にある欲望、関心、目的から、自分自身を見つめてみることも、重要であると言うことを最後に確認したいと思います。

以上が私の確信です。しかし、これは絶対的な真理であるとも思っていません。皆さんはどう思われますか。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏

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