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「頑張り」ながら「サボる」方法

昨日は、由佐美加子さん主催のメンタルモデルについてのオンラインの学習会に参加しました。毎回このメンタルモデルの学習会は、大きな気づきがあり、私自身や人生に対する理解を確実に深めてくれるのです。今回も大きな気づきがありましたので、シェアさせていただきたいと思います。

(注: このシェアは、あくまでも私の認識のフィルターを通したものであり、純粋に昨日その場で話された事とイコールではありません。したがって、メンタルモデルについて深く学びたい方は、ぜひ由佐美加子さんの著書をお読みくださることを強く推奨いたします)

昨晩のテーマは、「価値なしモデルが遭遇する関門」でした。

簡単に言うと、「価値なしモデル」の人は、人の期待に応えて、何か価値を生み出していないと生きていけないという大きな不安や恐れをその根本的な特徴としています。私たちが生きているこの社会システムも、点数、偏差値、結果などの形で様々な期待のプレッシャーを与え、その中での価値をどんどん生み出して行かないと生きていけない仕組みになっているので、ますます「価値なしモデル」を強化していく性質も持っているようです。

しかし、それは本当にこのモデルの望んでいる事ではなく、価値を生み出さないといけないと言う不安の奥には、自分のありのままの存在で生きたいという想いがあるようです。言い方を変えると、とにかく価値を生み出さなければいけないと言う「パフォーマンス価値」から、他者が望む価値を生み出さなくても唯一無二の自分として存在していい「存在価値」を軸とした生き方へのシフトを目指していると言うことです。

したがって、自分の存在価値を100%認めることができれば、他の人がなんと言おうと言うまいと全く関係ないわけなのですが、先ほども述べたように、この社会の仕組みが存在価値ではなく、パフォーマンス価値を認める方向に極端に偏っているので、なかなか自分の存在価値を心のそこから100%認めることができない人が大量に生み出されているわけです。

そうした中、このモデルの方は特に、「成長」と言う言葉が大好きで、それに伴って、頑張ること、勝つこと、勝ち続けることなどが行動規範になっているようです。そして、学校、会社へと進む中で、どんどん勝ち続け、成功し、出世し続けると、関門にぶち当たるそうです。すなわち、自分の1つのメンタルモデルの価値観の中で生きてきた人間が、出世してマネジメントの立場に立つと、自分のメンタルモデル以外の価値観を持った人々も大勢いるわけで、そういう場合に、自分のメンタルモデルの眼鏡をかけてしか見えないので、頑張っていない人とか、勝つことに価値を見出していない人とかを受け入れることができず、マネジメントの点で「関門」が対立などの形で立ちはだかると言うことです。

また、とにかく頑張って勝ち続けること、価値を生み出し続けること、成長し続ける事を長い間続けていると、ベクトルは外に向いており、常に他者の期待や社会や集団などの要請に目が向くため、肝心の自分に対してベクトルが向かず、自分の心身の健康がおろそかになり、「病気」という形で「関門」が立ち現れることが多いようです。20代、30代の時はがむしゃらにこの成長路線でやってこられたとしても、40代、50代になって自分のリタイヤや人生の期限が見えてくると、次第に成長だけではやっていけないことが見えてきて、心身的に弱ってくると、心身の「病気」として現れてくることもあり、それが「関門」として立ち現れてくるようです。

そして、その「関門」に相対した時に、自分がこれまで何に対して恐れてきたのか、そして自分が本当に望んでいる事は何なのか、ありのままの唯一無二の自分の存在価値を認めることができるかどうかなどの課題が降りかかってくるようです。

こうした「価値なしモデル」の人たちにとっては、「サボること」が、ブレイクスルーを起こす大きな1歩になるようです。また、鬱や引きこもりと呼ばれるような状況になって、とことん何もしない事を体験することも重要なようです。その結果、それまでのモードが解除され、自然と本当にやりたいことへと進むことにもなる可能性があるそうです。

そうすると、今日的な状況を考えると、様々な場面で、働くことや頑張ることができない状況が半ば強制的に生まれているわけですが、これは使い方によっては、「サボること」「何もしないこと」を体験できる貴重な機会にもなり得ると言うことです。しかし、こうした状況下でも同時にがんばらなければいけない事態も発生したりするのも事実で、物事はそう簡単にはいかないようです。

では、どうすればいいのか。

私は、由佐さんにある質問をしたときに、彼女の口から出た言葉に、大きなヒントがあると感じました。私は、こうした価値なしモデル等の回避行動のパターンを抜け出して、自分らしく存在価値として生きるために何か特別な方法やメソッドはあるのかと質問したのですが、由佐さんは特別なそういう方法もあり得るが、彼女自身は、日常生活の中で立ち現れていることをもとに意識をシフトすることも可能であることを指摘していました。すなわち、私たちは様々な形で内外から病気や対立などの形のメッセージを受け取っているわけですが、それらを生きた「教材」として意識を進化させるきっかけとするということです。特に特別な修行をしなくても、日常生活の中にいくらでも自分の望む世界を作り出すためのヒントは存在していると言うことでした。

そして、さらに由佐さんは驚くべきことをおっしゃったのです。簡単に要約すれば、彼女が喋っている事は彼女自身がしゃべっていることではないと言うことでした。

「えっ!」と思われるかもしれませんが、彼女自身が話したりしている事は、彼女が個人の枠内で考えて表現しているのではないと言うことが言われたのです。

私は思わず、「では、今話しているのは誰なのですか」と聞いてしまいました。それに対しても、彼女は「わからない」と言っていました。つまり、誰が話しているかとか、スピリチュアルな現象が生じているのかとかということに意味があるのではなく、そこでどのような内容が展開しているかが重要だと思いました。私が受けた印象は、自分の内側から出てくる命のプロセスに信用するというか、そうした純粋な命からの流れを感じたのです。

これは衝撃的なことでした。頭の中では、「自分」と言うのは幻想であり、私たちは他者と分離した体を持っているので、「自分」が存在していると思いがちですが、実は自分から発せられる言葉が必ずしもその他者から分離した個体から出ているとは限らないわけで、それを実際に、自然とさらっと言ってのけた由佐さんに私は大きな衝撃とともに、感動を覚えたのです。

そうすると、先ほど述べたような「がんばらなければいけない状況」においてもどのようにすれば良いかと言うことについても、1つの方向性が見えてくるんじゃないかと思います。

すなわち、頑張らなくてはいけないと辛くなるのは、周囲から分離した自分がおり、その自分が抱え切れない位のものを抱えてしまうからこそではないかと。しかし、その「自分」が幻想であり、周囲と自分は分離しておらず、周囲と共に生きていると言うこと、そして私たちは個人を超えた叡智によって支えられていると言う事が見えてくると、自分1人でがんばって全てを背負い込む必要はなく、進むべき方向性も見えてくるんじゃないかと思ったのです。

そして、周囲や他者からの分離や、自我の意識と言うのは必ず「思考」を通して生じるものです。したがって、「がんばらなければいけない状況」に遭遇したら、思考のスイッチをオフにして、そもそも自分は存在しないのだと言う前提で、その場で展開しているエネルギーの流れに素直に乗り、私たちの命が向かう方向に対して信頼を寄せることではないかと思ったのです。

つまり、他者から見たら「頑張っている」ように見えても、心の中では思考や自我をオフにして「サボっている」というような状態だったら、実現可能ではないかと思ったのです。この「がんばりながらサボる事は可能である」と言う気づきは、私にとっては1つのブレイクスルーでした。私はそこに、大きな自由を確信しました。

何かの参考になれば幸いです。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏

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