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でもね、そんなあなたが好きよ

「でもね、そんなあなたが好きよ」

私は、この言葉を聞いたとき目から涙が吹き出してきました。

とはいっても、これは私に向けられた言葉ではありません(苦笑)。実は、映画「男はつらいよ50 • おかえり、寅さん」を見ていた時に出会った言葉でした。

昨年、この映画が日本で公開された時、私はどうしてもこの映画が見たくて何とか日本に行こうとしたのですが、いろいろな事情が重なって行くことができず、今回iTunesからその映画が販売になり、躊躇せず買った次第であります。

もう懐かしさや、寂しさや、嬉しさや、様々な感情が降り重なり、様々な思い出が沸き起こってきて、共感して感動して、映画の始めから最後までずっと泣いている感じでした。

冒頭の桑田佳祐さんバージョンの主題歌を聴いて泣き、

くるまやの仏壇の中に置かれていたおいちゃんとおばちゃんの遺影を見て泣き、

ひろしがさくらに告白する回想シーンを見て泣き、

満男の娘の愛らしさや、いじらしさに泣き、

その他、数え切れないところで泣き、

歴代マドンナが総登場するシーンには、まるでニューシネマパラダイスのラストシーンのような号泣の嵐が襲ってきてしまった次第です。

よく誤解している人がいるのですが、この「男はつらいよ」という映画は、ふった、ふられただけの映画ではありません。もし、ふった、ふられただけだったら、50作も作られる事はなかったでしょうし、これだけ日本だけでなく、世界中で愛されている映画にはならなかったことでしょう。

そして、今回主演の渥美清さんが亡くなってから長い年月がたっているにもかかわらず、最新作が作られるほどの特別のパワーがこの作品にはあったのだということが改めてわかったような気がしました。

今回初めてわかったのは、そのパワーの秘密は、寅さんが常に「共にある」を実践してきたことにあったのではなかったのかと思いました。しかも、その「共にある」は単に、物理的に、ある人の横に突っ立っていると言う意味ではありません。それは、その人が言葉で表現していないプロセスの領域に深く思いを寄せて、決めつけをせずに共にいると言うことだと実感しました。

例えば、寅さんは浮気した旦那さんに対して悔しさや悲しさの感情を抱いて涙をポロポロ流しながら文句を言っている女性に対して、「俺は夫婦の間の難しい事はよくわからないけども、奥さんがその気持ちを伝えたいと思っていると言う事はわかりますよ」というシーンがありました。その女性は、この言葉を聞いて大いに癒されるわけですが、このシーンには、一切の決めつけはなく、目の前の女性が泣いたり文句を言ったりするコンテンツの奥にある、この女性のプロセスの中にある思いを全面的に肯定して共にいることが象徴的に描かれていると思いました。

このように、寅さんは、この映画のシリーズの中で、毎回様々な苦しみや辛さを背負ったマドンナに対して、決めつけを行わずに、常に「共にいた存在」だったのです。

しかも、その「共にいる」と言う事は、単に同じ時刻に、同じ場所にいると言う意味も超越しているということが見えてきました。寅さんは、当時、年がら年中日本中を旅して歩いていたわけですが、自分の甥っ子の三男に対して、「何か辛いことがあったら、風に向かって俺の名前を呼べ。そしたら、おじさんすぐにどこからでも駆けつけてやるから」という言葉を残しているのです。

そうした寅さんの「共にいる」思いは、時間や場所を超越して、継続しているんだなということを実感しました。それは、満男の中でおじさんである寅さんが生き続け、今回の映画の中でも、「もしおじさんだったらきっとそういうよ」と言うシーンで表されていたように、寅さんは今でも満男の中で「共に」生きているんだと言うことが描かれていたように思います。

なぜ、今回「共にいること」を強調しているかというと、この性質は、人間だけでなく、哺乳類に共通した性質であり、すべての生命に共通した性質でもあると言うことです。つまり、これは小笠原和葉さんから学んだことですが、宇宙をデザインした存在は、一つ一つの生命をバラバラに生きるようにデザインすることも可能だったはずなのに、一緒にいて助け合わないと生きていけないようにデザインしたとも言えるわけで、言って見れば「共にいること」は、私たちの存在の奥底に備えられた、生命としてのOSだということです。

しかし、今日、新型コロナウィルスをきっかけとして、世界で、様々な分断や対立も一方で広がっていることも事実であり、そういう今だからこそ、「共にいること」の重要性が、この映画を通じても浮かび上がってきていると思います。

今回の映画の中で、後藤久美子さん演じる泉は、国際的な紛争に巻き込まれている人々を人道的に援助する仕事についています。その中で、シリアの難民について触れられる場面があり、ここに、世界の対立や分断による悲しさが象徴的に表されているんだと思いました。そんな中に「共にいる」泉の姿は、苦しんだり悲しんだりしていたマドンナたちに寄り添って「共にいた」寅さんの姿ともダブったりもしました(涙)。

つまり、先ほども述べたように、その「共にいること」は、目に見える言葉や行動の奥にあるその人の本当の思いに寄り添うことであり、そこでは一切の決めつけを行わず、恐れからではなく愛から相手を受け入れることであることをこの映画「男はつらいよ」は長い年月をかけて、私たちに教え続けていてくれたんではないかと思うのです。

相手を決めつけない「共にある」愛は、寅さんが「共にいた」女性たちにも引き継がれているのです。

例えば、シリーズ中で最も寅さんが愛した女性といってもいいリリーさん(浅丘ルリ子)が今回の映画の中でも登場したのですが、肝心な時に大切な決断ができない叔父•寅さんに対してイライラしていた満男に対して、「でもね、そんなところが好きだったのよ」とリリーさんは言いました。

また、久しぶりに再開した泉に対して、自分の妻が亡くなったことを隠していた満男に対しても、泉はこういうのです。

「でもね、そんなあなたのことが好き」

これは長い間「共に」いたからこそ出てくる愛の言葉だと思いました。リリーさんの言葉も泉の言葉も、通りがかった人に一目惚れしただけでは絶対に言えない言葉です。寅さんも満男くんも長い間時空を超えて、愛する女性たちと今でも「共に」いるのです。

世間体も
常識も
住んでいる場所も
今の立場も
血が繋がっているかどうかも
生きているか死んでいるかも
時間も
場所も

そうしたあらゆるコンテンツを、ぜんぶ飛び越えて「共にいる」愛。

これを涙なしに鑑賞するのは不可能でした(涙)。

そして、そんな寅さんも、渥美清さんも、この映画も、昔から私たちと共におり、今も共におり、これからも共にいるんだなあと思いました。

お帰り、寅さん。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏

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