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信念対立→解消のプロセスでの〈私〉の確信

はじめに


突然「来年から我が校では4年生の日本語を取りやめることになりました」と職員会議で告げられて、唖然としたのが昨年の12月のこと。

日本語のかわりに、学校は4年生に特別な科学プログラムを実施する方針を打ち出したのです。事前に一切の話し合いもなく。

頭の中では、「これは非民主的だ!」とか、「私の教える自由が侵害された!」とか、「ここは全体主義の国か」など、色々な声が頭の中で駆け巡りました。

ドラマ半沢直樹の「やられたらやり返す! 倍返しだ!」ではありませんが、何とか相手に反論してやっつけることを真剣に考えたりもしました。

しかし、その約1ヶ月後に、まさかwin-winの「第3案」が生まれることなるとは思ってもみませんでした。なぜそのようなことが起きたのか?

今回シェアいたしますのは、私の個人的な経験に基づく確信です。したがって、誰にでも応用可能なメソッドや法則や真理ではありません。あなたにとっては合意できないことも含まれているでしょう。しかし、ここで私が確信した事をシェアすることによって、皆さんが集団で相互に検証されると、それがより多くの人の合意できる本質へと編み上げられていくきっかけのではないかと思ったので、今回シェアしようと思った次第です。

自分がコントロールできることに集中


今回、私がまず、心に置いたのは、「自分がコントロールできることに集中し、自分がコントロールできないことには時間を使わない」と言うものでした。これは、ストア哲学のマルクス•アウレリアスの「自省録」で学んだことが元になっています。

当時、ローマ皇帝であったマルクス•アウレリウスは、度重なる戦乱や、信頼していた仲間からの裏切りなど、様々な困難に向き合わなければならず、激務の中で、いかに生きるべきかと言う問いを常に持っており、その中で、彼が到達した1つの考え方が、上記で紹介した「自分がコントロールできることに集中する」と言うものだったのです。

実は、私は昨年ある事件に巻き込まれたのですが、その時、加害者に対する猛烈な怒りがあったのですが、このマルクス•アウレリウスのこの教えに出会い、加害者云々よりも、自分がコントロールできること(例: 学んで自分が成長すること、自分の愛する人たちとクオリティタイムをすごすこと、仕事をさらに充実させること)に集中したことがあったので、私の中ではこの教えは確信があったのです。

今回の件で言えば、学校の管理職の思想信条や価値観や人格は私がコントロールのできないものであり、ましてや変えることなどできません。もしそこにエネルギーを使っていたら、徒労に終わっており、ますます問題が泥沼化していたかもしれません。だから、相手の人格批判をしない事は、割と早い段階で決めていました。



信念対立にエネルギーを使わない


今回は、科学プログラムを重視する学校側と、日本語教育を重視する「信念対立」であったと思っていますが、意外かもしれませんが、この対立にエネルギーを注ぐ事はしませんでした。

それは、先ほども述べたように、対立を通じて、相手を変えることなんて、そもそもできることではなく時間の無駄と思ったことが1つ。

もう一つは、昨年から私は現象学という哲学を学んでおり、信念対立は原理的に言っても、解決に結びつかないことが明らかであることを学んでいたので、別のことをしようと思ったのです。

つまり、「Aが正しいか、Bが正しいか」という二項対立の図式は、いつまでたっても平行線であり、結局は物別れになったり、どちらかが強権発動するかの状態になることは明らかだったのです。正当性なんていくらでも作り上げられてしまうし、いくらでも疑えてしまうからです。

だから、考え方が違うAであっても、Bであっても、疑う余地のない、「共通の底板」みたいなものが見つかれば、それを土台に話が前に進む可能性があると考えたわけです。


お互いの欲望関心を尊重する


私が、現象学で学んだ原理の1つに、「欲望相関性の原理」というものがあります。平たい言葉で言えば、私たちの認識は、すべて、何らかの欲望や関心に基づいていると言うものです。どんなに、客観的に見える認識であっても、そこには、何らかの欲望や関心があると言うのです。

例えば、目の前に水があった場合、「飲みたい」と言う欲望があるかもしれませんし、「手を洗いたい」と言う欲望があるかもしれませんし、「火を消したい」と言う欲望があるかもしれませんし、人によって様々な欲望があるかもしれません。つまり、そういう欲望があるからこそ、認識できると言うことです。もし、欲望がなかったら、水の存在にすら気がつかないでしょう。これが、現象学でいうところの1つの「疑い得ない底板」なのです。

したがって、欲望相関性の原理を今回の件に当てはめると、日本語の授業をカットして、科学のプログラムを導入するプランと同時に存在している欲望•関心は何なのかと言うところに焦点を当てたのです。

残念ながら、これについては質問したのですが、「カリキュラムは学校が決められる」ということを言うだけで、回答らしいものは得られませんでした。しかし、プランの内容から判断すると、4年生が日本語を学ぶことにあまり関心がなく、一方で、彼ら彼女らに特別な科学プログラムを教えることに強い欲望や関心があると言う事は明らかでした。

子どもたちが、科学を学ぶ事は全くもって重要なことであり、これに関して私は否定する気持ちは全く起きて来ませんでした。特に、この科学プログラムでは、実験が重視されていたので、子供たちが仮説を立てて、それを検証する、探究学習的な要素も多分に含まれており、私は大いに賛成したい気持ちになりました。

そこで、学校側の欲望•関心の対象になっているプログラムを批判したり攻撃したりはしないことにしたのです。言い換えると、科学プログラムと、日本語の授業の両方が成り立つような可能性を模索しようと考えたのです。


欲望と第3案を示し続ける


私は、口頭やメールで、学校側に、4年生にこれまで通り日本語教育を実施したい「欲望関心」を示し続けました。もちろん、その時に気をつけたのは、感情的になりすぎないことでした。それよりも、4年生から日本語を学ぶことの意味や意義を伝えましたし、これまでのことや、将来の事まで含めて、様々な形で、私の欲望や関心を示し続けたのです。

そして、私の欲望や関心の中には、学校を困らせる意図は全くないということ、私のエゴから出ていることではないということ、生徒にとっても学校にとっても、意義があると言うことを明確に伝えました。

さらに、私は、学校側の欲望•関心と、私の欲望•関心の両方を満たすような「第3案」を具体的な形でいくつも提示しました。

その中には、具体的に時間割を調整する案も含まれていましたが、科学教育と言語教育を統合したCLIL(Content and Language Integrated Learning)の提案も含まれていました(自分はこれまでやったことがありませんでしたが、今回のことをきっかけに、私の言語教育をさらに発展させる契機になると思って、CLILの学習も始めたのです)。

信念対立に使っていたかもしれないエネルギーや、周囲の人たちに愚痴を言うときに使っていたかもしれないエネルギーを、全てこうしたプロセスに集中した感じでしょうか。


Yes, Andの精神 - ユーモアのパワー

このように、理性的な取り組みを続ける一方で、私は長いクリスマス休みの間に、ちょっと異なる観点からのアプローチを学びました。

それは、ユーモアの観点です。実は、アメリカでは、即興コメディやお笑いで使われている手法を取り入れて、ビジネスや仲間作りに活かしている事例がいくつもあるようなのです。

「ユーモアは最強の武器である」や「Yes, And - なぜ一流の経営者は即興コメディを学ぶのか」などの本を読んだのですが、その中で、強調されていた1つの考え方が「Yes, And」だったのです。つまり、私たちの日常生活では、自分と違った考え方に出会った時は、「No」や「but」を使ってしまうことが多く、相手を否定して、そこで話が終わりになるケースがかなりあると思うのですが(私も何度もそういうことがありました: 苦笑)、この「Yes, And」の考え方は、相手がどんなことを言ったとしても、まずはイエスと受け止めて、それをもとに展開すると言うことに重点を置くのです。アメリカの即興コメディーや、コメディードラマは、この手法で多くのお笑いを生み出しているわけで、これが、なんと、私たちの集団や組織の人間関係にも応用できると言うものなのです。

実際に、こうした考え方を導入した様々な会社や組織の中で、これまで以上の関係づくりが進んでおり、創造的なアイディアが出てきたり、忍耐強くなったり、成績や業績が上がったり、組織の中の人間の学習意欲が向上したり、評判が上がったり、様々な効果が現れたと言うのです。

今考えると、学校側が提示した価格教育を批判したり、否定したりしないで、科学教育と日本語教育の両方が成立する方向性を示したのも、形を変えた「Yes, And」の精神だったのかもしれないなと思えてきました。

この精神は様々な形で応用でき、上記で紹介した本の中には、メールでの具体例なども示されていましたので、私はこれをメールで応用したりもしました。ちょっと恥ずかしかったのですが、真面目な内容の後で、「もし(管理職の)お二人が私の要望を何らかの形で聞いていただけるのでしたら、お二人には無料の日本語のレッスンをプレゼントいたします😊😊😊😊」と言う、絵文字付きのメッセージを送ったりもしたのです。

このメールが、管理職の人間にどのようなインパクトを与えたのかは、全く分かりませんが、(苦笑)、私の中にかなり大きなスペースができた事は確信を持って言うことができます。そもそも私だけでなく、人間が感情的に対立する時と言うのは、心の中にスペースがない時だと思うんですが、自分自身がユーモアを使ったと言うことで、自分の中に確実にスペースができるのを感じたのです。これは、私にとって大きな発見でした。


全く次元の異なる愉快な体験の共有


また、これもユーモアのパワーに関連した内容なのですが、これまでの対立とは、全く異なる次元の「愉快な体験」を共有することにも非常に大きなパワーがあるんだと私は確信しました。

ちょっと脱線しますが、国際政治の場面でも、ユーモアあふれる「愉快な体験」を共有することによって、深刻な対立が解消し、話が前進した事例がいくつもあるようです。

これも先ほど紹介した本の中に書かれてあったことですが、1998年のアセアンサミットにおいて、アメリカとロシアがミャンマーの政権をめぐって深刻な対立をしていたそうです。昔、夜の晩餐会で、各国の代表は、何か出し物をするように決められており、なんと、アメリカとロシアの代表がコンビで歌を歌うことが支持されたと言うのです。すると、2人は、、お互いの政治的信条を一旦脇に置き、何度も何度もリハーサルを繰り返し、大拍手喝采のパフォーマンスを示すことができたと言うのです。

その後、2人は友人になり、2人でレストランで食事をすることをしたそうです。その結果、最悪な形での対立(戦争)は避けられ、話が前進したと言うのです。


ちなみに、過去において、その他の有名な政治家たちも、ちょっと想像もつかないような「愉快な体験」をしていたようです。例えば、元国連の事務総長だった韓国に潘基文氏はABBAのコスチュームで歌を披露したり、最近ウクライナ情勢で国際的な批判の対象になったりしたロシアのラブロフ氏もダースベイダーの格好をしてパフォーマンスを披露したことがあったそうです。


話を、私の学校の事例に戻しますが、実は、今年に入ってから似たような「愉快な体験」を共有することがあったのです。

先日、教職員のチームビルディングのワークショップとして、「幸せ」をテーマにしたケーキ作りの時間があったのです。管理職も含めて、全教員が9つのグループに分かれて、「幸せ」を念頭に置いたケーキを一緒に作ることになったのです。そして、私は、偶然、管理職と同じグループになってしまったのですが、その言葉、今振り返ると信念対立を解消する上で、1つの大きなきっかけになったのではないかと思っているのです。

私は、この取り組みは、現象学で言うところの、本質観取の特別バージョンだと感じました。現象学では、一人ひとりの経験を大切にしながら本質を編み上げていくので、まず、私は思い切ってグループのメンバーに、「どんな時に幸せを感じますか」と言う問いかけをしました。

すると、メンバー全員から、「ビーチに行った時」と言う反応が返ってきました。オーストラリアは夏休みが終わったばかりであり、多くの教職員は、休みを利用して、海に行って楽しむ習慣があるようで、休みが終わったばかりの教職員の口からそのようなことが言われたのは何も不思議な事はないと思いました。私自身も、休み中に海に行って、楽しい思い出ができたので、それについて合意することができました(笑)。

そこでできたケーキがこれです。




これが本当の本質ケーキ(契機)なんて、ダジャレを言っている場合ではありませんが、この経験ができた後、グループの中に仲間意識が生まれて、「幸せ」な気分になって、自然にグループ写真を撮る流れになったりしました。管理職も含めて、私もメンバーも、みんなで自分たちの目標達成を純粋に喜び会えたと確信しています。

このワークショップが終わった後、私の中に、管理職に対してちょっと違った感覚が生まれてきました。「ひょっとして、校長の立場は1つのペルソナ(仮面)であり、それはその人の1側面に過ぎず、その人を総体として見た場合、様々な役割の仮面をつけつつも、純粋に幸せになりたいと思っている1人の人間なのではないか」「ひょっとしたら、この人も職場における様々な形の対立に悩んでおり、それをなんとかしたくて、今回のようなワークショップを企画したんじゃないか」みたいな思いが生まれたのです。それは、私も全く同じであり、何か私の中に、それまでなかった共感みたいなものが出てきたのにはびっくりしました。

私の中に対立の感覚は消えていました。

Win-Winがやってきた!


そして、そのワークショップがあった翌日、管理職の1人が、私の仕事部屋を訪れ、4年生は、日本語と科学プログラムの両方行えるようになったと言うことを知らせてくれたのです。

そこで示された「第3案」は、時間割を調整したり、他の先生の勤務を変更したものであり、誰にとっても不公平にならないまさしくWin-Winの「幸せ」案でした。

見た目は書類上で、これまでの時間割に日本語の授業が追加されただけの変更ですが、これをやるために、時間をかけて検討していただいたり、他の先生との交渉もしていただいたことも想像され、私は心から、この管理職の方に深く感謝しました。


〈私の経験〉で確信したこと


今回私が体験したことは何を意味しているのか。

いろいろな観点から、書かせていただきましたが、何が原因になって、このような結果がもたらされたかと言うことを断定する事は到底できません。複数の要因が絡まっているかもしれませんし、全く私が気がついていない力学が働いたのかもしれませんし、そこについては大いに疑念の残るところだと思います。

しかし、

●昨年12月に「来年から4年生には日本語を実施しないことになった」と言われた後に、私が何もアクションを起こさなかったら、何も変化が起きなかったということ

●自分のコントロールできることに集中することで感情的な対立が避けられたこと

●自分の欲望•関心や第三案を示し続けたことで、相手に私の考えが伝わったということ

●相手に欲望関心も自分の欲望関心も否定しなかったことで、新しい道が見えたこと(お笑い、CLILなど)

●そして、対立の次元とは、全く異なるユーモアや陽気さの次元で相手と関わることで、自分の中に確実にスペースができ、相手に対する見方が広がったこと、仲間意識が生まれたこと

以上の点は、私の中で疑いようのないことであり、確信を持っているといえます。


おわりに

以上が、昨年から今年にかけて私が体験した「信念対立」と、その解消のプロセスの中で確信した内容です。

冒頭にも書きましたように、今回の内容は、あくまで私自身の中での確信であり、誰でも合意できるような内容ではないと思いますし、どんなケースでも応用できるメソッドや方法でないことも明らかですし、もちろん、絶対的な真理を語っているとも思っていません。

今回書いた事は、ぜひこの文章を読んでいただいた方々の個々のケースでたたき台にしていただけたら幸いです。そのことによって、さらに検討が進み、現場において、信念対立に苦しんでいる方々のための何らかの本質を見いだす1つのきっかけになるのではないかと確信しています。

みなさんはどう思われますか?

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏

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