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哲学は人生の羅針盤 - 信念対立を乗り越えるために

先日、ブリスベンの中心街を歩いていたら、何やらメインストリートの方から叫び声が聞こえてきました。

ちょっと耳をそばだててみると、どうやら1人の男性がアジア人に対して非常に差別的な発言を叫んでいるのが聞こえてきました。それを具体的にここで再現する事は控えたいと思いますが、ポイントは、散々アジア人に対してひどい言葉を言った後で、「この国は俺たちのもので、お前たちは出て行け」と言うことを何度も繰り返していたようです。

ここで、その男性と面と向かって、「それは差別だ」とか、「それは間違っている」とか、そういうふうに立ち向かっていく選択肢もあると思いますが、それは言ってみれれば、信念対立を激化するだけで、何も生産的で得られるものはないと思っています。

この事例は、人種差別の典型的な例ですが、これは本質的には信念対立であり、その他、性差別、障害者差別も、宗教的対立も、根本は同じなんだと思います。

こうした信念対立を乗り越えるために、人類は様々な取り組みをしてきました。その1つの欠かせない営みは哲学だったんだと思います。

哲学では、絶対的な真理を排して、人々と共に共通了解を見出して、より普遍的な本質を編み上げていくことに重点を置いています。

そう言うと、「ちょっと待ってくれ、真理を排するってどういうこと?哲学は真理を明らかにしようとしているんじゃないのか」と言う声が聞こえてきそうです。

しかし、これには誤解が含まれています。どういうことかと言うと、そもそも、人間は、人間のOS(主観)の外に出ることができないので、絶対的な真理は愚か客観的事実にも原理的に到達することはできないのです。もし、主観の外に出ることができて、自分たちの営みを客観的に検証することができれば、ひょっとしたら、客観的事実に到達できると言えるのかもしれませんが、それも原理的に無理です。例えば、コンピューターやテクノロジーを使って、そこから人間の営みを「客観的に」検証しようとしても、最終的にそれを判断するのは、人間の主観だからです。

話を信念対立に戻しますと、言ってみれば信念対立は、どこかに絶対的な真理や客観的事実があり、私たち人間はその下で生きていかなければいけない、それを無視したり、それとは違うことを言うのは悪いことであると言う発想が、その根本にあるんだと思います。

言い方を変えると、信念対立と言うのは、「自分にとっての絶対的真理」と「他者にとっての絶対的真理」の対立といえます。しかし、先程言ったように、人間は、原理的に「絶対的真理」に到達できないので、この両方の「絶対的真理」を掲げている以上、この対立は永遠に終わらないのです。

そこで、哲学(特にフッサールの現象学)では、そうした絶対的真理があるかどうかの議論はせず、判断保留(エポケー)するのです。

さらに言うと、自分の主観の中に立ち現れている現象に注目するのです。そして、誰も疑い得ないところを思考の始発点として、話を前に進めようとするのです。

つまり、一人一人が主観の中であることを思ったり、感じたり、考えたりした「作用」は、誰も疑うことができませんので、そこを思考の始発点にするのです。

具体的に言えば、目の前に🍎があったとします。ある人は、「それはリンゴだ」と認識するかもしれません。そして、この人に、「それはりんごだと思わなかったでしょ」といっても、通用しないわけで、本人にしてみれば、「それをりんごだと思ってしまったこと(作用)」は、変更不能で疑いようがないことなのです。つまり、その人がそう思っちゃった事は本人がそう確信している限り誰にも疑えないことなのです。

ここで注意が必要なのは、本当にそれがりんごかどうかと言う〈内容〉に関しては疑いが可能だと言うことです。ひょっとしたら、それは蝋細工で作った精巧な作り物かもしれませんし、精密な3Dホログラムかもしれませんし、ひょっとしたら夢の中で見ている実態のないりんごかもしれません。

内容についてはいくらでも疑えるのです。


さらに言えば、「なぜそれをりんごと思ったか」という原因に関しては、いくらでも疑え、最終的な答えには行き着けないのです。ひょっとしたら、それは以前の経験からそう思ったのかもしれませんし、赤い色からそう思ったのかもしれませんし、その形からそう思ったのかもしれませんし、色々と口では説明できるかもしれませんが、それを特定することはできないのです。

したがって、思考の出発点とするのは、「それがりんごと思っちゃったこと」と言う〈作用〉だけなのです。

先程の人種差別の例で言ったら、その男性は「アジア人に対して〇〇だと思っちゃった」ということは疑いないことなのです。しかし、「なぜその男性がそう思ったのか」については、いくらでも議論することができ、それにはキリがないので、そこには時間を使わないことが賢明なのです。

それよりも、むしろ、その男性が「アジア人を〇〇だと思っちゃった」と言うことに注目して、そこを思考の出発点として、果たして、それがすべての人の共通了解を得られる〈内容〉なのか、どうかについて焦点を移していく必要があるんだと思います。

先ほど申し上げましたように、人間は、原理的に絶対的真理には到達できませんから、一人一人が、あるトピックや対象に対して、主観の中に立ち現れていることを出し合うことによって、共通事項を見出し、その共通事項を足がかりにして、共通了解を編み上げていくのです。別の言い方をすれば、すべての人が合意できる普遍性を編み上げていくのです。

哲学の歴史において、こうした信念対立を防いで、誰もが合意できる社会とは何なのかを真剣に考えたのが、ルソーであり、ヘーゲルたちであったと言われています。

この様々な信念が存在し、対立している世の中において、誰もが合意できることって一体何なんでしょうか。

それは民主主義です。

民主主義は、よく「多数決」と誤解されていますが、実際はそうではなく、その本質に「自由の相互承認」と「一般意志」と言うものがあります。

すなわち、「自由の相互承認」とは、お互いの自由を侵害しない限り、お互いのことを最大限に承認し、尊重しようと言うことです。

そして、「一般意志」と言うのは、その場の全ての人々が合意できるルールといったらいいでしょうか。あるいは、最上位目標と言い換えられるかもしれません。すべての人が合意できるそうしたルール(例•憲法)に基づいて、私たちは物事を前に進めていこうと言う考え方です。

つまり、こうした「自由の相互承認」と「一般意志」に基づいた社会を作っていこうとするのが民主主義の考え方なのです。

今回は、街中で見かけたアジア人に対する人種差別的な発言をもとに、民主主義が出てきた経緯を考察しましたが、これは私たちの日常生活の中でも考えるべき重要な課題なんだと思います。決して政治の世界だけでなく、家庭、学校、会社、地域社会などでもその原理原則は変わらないと思います。

もちろん、信念対立は、上記の考え方だけで解決できるものでは無いのかもしれません(特に対立には感情が絡んでくるので、これには色々な対応が必要でしょう。例えば、その情動の奥にある欲望や関心や目的やニーズなどを明らかにする必要が出てくるでしょう。そのレベルでは、一定の共通理解が得られるかもしれません)。しかし、こうした原理的な考え方があるのとないのとでは、取り組みの内容に大きな違いが出てくると思います。

哲学は、言って見れば人生の羅針盤的な性格を持っていると思います。それを1つのコンパスとして、方向見定め、それをもとにして、自分たちなりの方法で、お互いのことを尊重し、お互いが合意できることを見つけて、話を前に進めていくことが重要ではないかと思います。

以上が私の考えです。もちろんこれも絶対的真理ではありません。常に、その中身の信憑性は問われて当然のことだと思います。皆さんはどう思われますか。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏

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