私の自己紹介
皆さん初めまして。これからnoteを使用して色々な意見を発信していきたいと思います。
まずはその前に私がどんな人生を送ってきたかということについてお話しします。
幼少時代 クラスの人気者として
三人きょうだいの末っ子として横浜市に生まれました。家庭環境は良い方だったと思いますが決して裕福というわけではありませんでした。
親父は清掃車の職員として働いていました。準公務員という位置づけのため、安定した職業である一方、子供の頃は親の仕事をみんなに言うのが嫌だった記憶があります。特に子供って清掃車が通ると鼻を摘んだりしてバカにしてませんでした?そんな感じのやつらに、なかなか打ち明けることはなかったです。
今となれば清掃の仕事で子供3人を全員四年生大学まで送り届けたと言うことを考えると、相当に大変だっただろうなと思うと同時に尊敬の念を抱いています。
繰り返しますがお金に余裕はなかったので、生活必需品以外のもの、例えば当時流行っていたゲームとかはまず買ってもらえませんでした。
小学校4年の頃ポケモンがブームになったときも僕は持っていなかったので、適当に話を合わせていました。
それでも僕はずっとクラスの人気者ポジションでした。周りと同じものをやってないとクラスで浮く存在になるというのは嘘だと思います。逆にいうとこの時から適当に話を合わせて物事を運ぶ能力が身に付いたのかもしれません。
思春期に入るにつれて少し繊細な性格が顔を出し始めてからはクラスの人気者ポジションではなくなりました。
大学入試 指定校推薦枠獲得の駆け引き
大学へは指定校推薦で入学しました。指定校推薦は基本的に学内で成績上位が権利を行使することができるシステムですよね。
ここで僕が使った手法を紹介します。僕は成績が悪い方ではなかったのですが、それでも上位10番〜くらいだったとかと記憶しています。MARCHの推薦枠なのである程度人気はあり、僕より上位の人間が検討候補に入れている可能性は十分ありました。
僕はどうしたかというと、学内トップ2の友達にお願いして、指定校推薦の情報が貼り出されてる掲示板の紙があるですけど、その学校名の横にそいつの名前を書いてもらったんです。こうすると推薦の確認に来る生徒は、その学校名の横に意味深にトップ2のめっちゃ頭がいいやつの名前が書いてあるもんですから、「ここはもしかして、あいつが狙ってるのか…諦めるか」となるわけですよ。
別に違法な行為ではないんですが、みんなが勉強という正攻法で攻める中、僕は人脈を駆使して他の生徒を心理的に妨害し、出し抜いたわけです。
結果僕だけがその大学の指定校推薦枠を獲得し、面接を受験、無事入学することとなりました。
なんとかストレートで大学を卒業…
入試勉強をせずに、すんなりと入学を決めてからはバイトばかりをして月に20万くらい稼いだりしてました。お陰でそのツケは入学してから払わされることになります。
要所要所のテストでは、友人が入手してくれた過去問などを用いてあまりいい成績ではないですが、なんとかストレートで卒業することができました。
就活も非常に苦労しました。なぜならこの時ちょうどリーマンショックが起こったからです。
今思うとあの時の就活の臨み方は間違ってたなと思うことがたくさんありますが、そもそも社会の仕組みを知らないのですから難しいわけですよね。だって世の中のどんな仕事があるのかすら分かってないわけですから。
そんな僕は当時、とにかく一部上場の名前の知れた会社をまず片っ端から受けました。ですがことごとくダメで、結局とある大手電機メーカーの子会社に就職することになりました。
大手のグループだから名前も聞こえがいいし、そんな無茶な働き方はないだろぐらいの気持ちでした、が間違ってたことに後々気づきます。この辺りはいずれ書きます。
理系職として入社したが、なぜか2年で営業へ
僕は理系だったので、入社後は電気設計として従事することになりました。まぁ特にやりたい仕事ではなかったけど、こんなもんかと思いながら毎日が過ぎて行きました。
満2年経った時辞令が言い渡されて僕は営業になりました。
えっ?て思いましたね。同時に僕はもうエンジニアの道には戻れないだろうなと思いました。このような日本の会社の意味不明なキャリアパスプランは至る所で見かけますけど、どうなんだろうなと思いますね。
しかし結局はこれが僕の新たな道を切り開いたとも言えるので人生何があるかわかりません。
本社への出向、そして化学メーカーへの転職
しばらく営業ポジションで奮闘していたところ、今度は本社への出向を命じられました。
出向というのは心理的にも大変な負荷がかかります。差別とまではいきませんが、やはり違った目で見られるからです。
そのような環境でも愚直に取り組んでいけば次第に協力してくれる人が現れるものです。
振り返ってみればとても充実した出向期間でした。日本のトップレベルのメーカーでの仕事はスケールも大きく、有能な社員も多く恵まれた環境だったと言えます。
その後とある理由により僕は転職を決意します。30歳になる歳の頃でした。
転職活動ではこれまでの経験が奏功し大手化学メーカーの営業職として採用され今に至ります。
人生は何が正解かその時にはわからないものだ
結果的に僕は理系で大学を卒業したにも関わらず、会社の勝手な人事がきっかけで営業としてのキャリアを積むことになってしまいました。
しかし今はそれでよかったなと思っています。なぜなら僕は今幸せだからです。
人生何が正解かは、後になってみないとわからないものです。
ですから今は辛くて大変な時を過ごしている方も、答えはどうか焦らずに、何とか踏ん張って耐え忍んでみてください。きっとその波が過ぎ去った頃にはまた違った答えが見えてくるはずです。
それではまた。
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