奇想小説「博士の体内事情」

「カモガワ奇想短編グランプリ」に応募するために書いた小説です。
細かいことは気にせず、おおらかな気持ちでお読みください。

奇想小説「博士の体内事情」

【一行梗概】
博士は身体の不調を調べるため、体内にクローンで潜ることにした話。

【三行梗概】
博士は身体の不調に悩んでいた。病院の検査では問題ないが治まらないため、自分の小型クローンで体内を調べることにした。調査中、助手の玲子が夕食を食べるよう呼びに来ると不調が発生した。

 以下、本文です。


 博士は悩んでいた。
 ここ最近、心臓がキュッと絞られるような痛みが発生したり、これまた存在を大きく主張するように脈拍が激しくなったり、何かが物足りないような切なさを感じたり、逆に身体中を高揚感が支配することがあった。それが起こるのはいつも突然で、当然博士には心当たりがなかった。その、ふいに訪れる不調に日常を煩わされることは無かったが、急に発生するようになったことから病気ではないかと疑っていた。忙しい研究の合間をぬって病院で検査をしたが、医師によると「心臓には問題ない。少し疲労があるようなので休息を取るように」と言われて帰された。そんなはずはないと思ったが、しかし研究者である博士が医学の専門家の言葉を無碍にすることは難しかった。
 しかし、その不調はその後も断続的に続いたため、流石に対処しようと思った。
 博士は自宅の敷地内にある研究所に入った。研究所内には、博士の様々な研究のための装置が所狭しと置かれていた。その中のいくつかの装置の電源を入れて暖機運転をしている間に、博士は冷蔵庫から培養していた自分の細胞を取り出した。培養していた細胞を一匙分掬い取ると、装置の所定の場所に入れた。その装置で自分の小型クローンを作るのである。
 クローンが出来上がるまでの間に、別の装置の相手をする。こちらは自分の意識をクローンに同調させるためのものである。出来上がったばかりのクローンは言わば素のままで、自分と同じ細胞を持っただけの存在である。そのクローンを博士が遠隔操作して、体内の不調を直接調べようとしていた。
 小型クローンはすぐに出来上がった。装置から取り出したクローンはシャーレの上に横たわり、目を閉じている。シャーレごと同調装置に入れ、博士は装置とコードで繋がったヘルメット上のものを被った。装置を操作して同調の処理を済ませると、シャーレを取り出して博士は簡易ベッドに横たわった。クローンの操作に集中していると、博士本体が転倒する危険がある。
 横たわった状態でシャーレのクローンをピンセットで摘まみ上げて顔の上に置くと、手元のリモコンで意識の切り替えを行った。博士本体の意識は数秒で眠るように落ちると、クローンへと切り替わった。
 博士はクローンの身体で目を覚ますと、手足の動きを確認してから立ち上がった。目的地は心臓だが、体外から心臓に行くには小腸まで行く必要がある。博士は自分の口に飛び込むと、食道を進み始めた。微小な博士の身体には食道は果てしなく長く感じられた。博士本体は運動とは無縁の生活を送っているため貧弱な筋肉しかないが、作り立てのクローンの身体には疲労が溜まっておらず、距離だけが退屈であった。
 辿り着いた胃の中は空っぽで収縮していた。胃の中を見て、そういえば今日はまだ一度も食事をしていなかったことに気が付いた。しかし、胃液に満たされていたら通過しにくいし、胃液で溶かされていた可能性がある。これ幸いと思いつつ、胃の粘膜に口内炎のような腫れがあることが気になった。今度は胃の検査をしなければいけないと溜め息を吐いて、胃をあとにした。
 膵臓と胆嚢への横道をちらりと覗きながら十二指腸を抜け、小腸に到着すると柔毛から静脈に入った。毛細血管内は歩かなければならなかったが、門脈からは血液のゆったりとした流れに身を任せていればよく、いつのまにか肝臓に到着した。肝臓もまた歩かなければならなかったが、肝静脈からは流されるままでよかった。博士は川下りをしたことは無かったが、このような感覚なのかもしれないと思った。流される心地良さに眠気を催していたら、急に空間が開けた。どうやら右心房に到着したらしい。どこが大静脈なのか分からなかったが、目的地に到着したなら何よりだ。
 それまでの血管のゆったりとした流れとは違い、血液を送り出すポンプの役割をしている心臓は常に動いているし、血液の流れも大きい。博士は心臓の壁を辿りながら右心房をじっくりと観察した。続いて右心室にも慎重に進み観察を行ったが、異常は見られなかった。心臓は右側の右心房と右心室、左側の左心房と左心室と分断されているので、異常が右側に無くても、左側にある可能性がある。
 博士は右心室の壁から手を離すと、血液の流れに従って肺動脈と肺、肺静脈を抜け、左心房に到着した。こちらも同様に左心房、左心室と観察したが異常は見られなかった。
「心臓の機能に問題があるのか?」
 不調の原因について思案しようとしたとき、博士のことを呼ぶ声がくぐもって聞こえた。それは聞き慣れた助手の玲子の声であったが、博士の意識は同調した体内のクローンにあったので、普段とは違って聞こえた。
「ヒロシさん、夕ご飯くらいは食べてください」
 耳を澄ませて聞き取れたのは、夕ご飯が用意できたという内容であった。余談だが、博士はドクターであるが、名前がヒロシであり『博士』と書く。玲子は最初は「ヒロシ博士」と呼んでいたが、最近になって急にヒロシさんと呼ぶようになった。
 博士は夕食時になるまで時間が進んでいたことに驚愕しつつ、玲子が現れた途端に心臓が大きく脈打ちだし、身体を包み込む高揚感に気が付いた。
「心臓の機能も気になるが、脳からの影響が大きそうだ」
 左心室から上行大動脈を駆け抜ける間に、博士のクローンの身体はバラバラに分解し、大半はアミノ酸になった。元クローンのアミノ酸になった博士は血液脳関門を問題なく通り抜け、脳内に散り散りに拡散していく。その中の一つはトリプトファンと一緒に行動していた。しかし、トリプトファンは脳内セロトニンに産生されてしまった。アミノ酸の博士はそれを見ているしかなく、産生された脳内セロトニンをもろに浴びた。セロトニンは幸せホルモンとも呼ばれており、セロトニンをもろに浴びて意識が同調している博士の全身に多幸感が広がっていった。
「セロトニン、気持ち良すぎる」
 血液脳関門を通り過ぎるときに分解されていたアミノ酸たちは脳の各部位で種々のホルモンへと産生されていた。意識が残っているアミノ酸は僅少であった。
「そろそろタイムリミットか」
 最後に残っていたアミノ酸が無くなると、博士の意識は徐々に本体へと移行していった。
 ゆっくりと目を開けると、眼前の蛍光灯の光が目に染みた。
「ようやくお目覚めですか、ヒロシさん」
「玲子くんか……」
 目を擦りながら上体を起こして見ると、玲子の形の良い唇は苦笑を描いていた。
「もう、夕ご飯が冷めてしまいますよ」
 呆れたように言う玲子を眺めながら、博士は自分の荒れ放題の頭部を掻いた。
 博士の心臓は大きく脈打ち、身体には多幸感がまだ残っていた。

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