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#8『クリトン』劇評 阿部修一郎さま

2023年12月に公演が行われた、#8『クリトン』について、阿部修一郎さまより劇評をいただいております。

公演情報や、上演映像は以下よりご覧ください。

阿部修一郎さま劇評

公演「クリトン」について書くことは、すなわち〈距離〉について記すことである。

 眼と眼が合うこと。私と他者とのふたつのまなざしが交差するという現象。それが、本公演における最も重要な出来事だ。哲学者の鷲田清一によれば、まなざしの交差によって「自他はともに一つの共通の〈現在〉に引きずり込まれ、そこから任意に退去することができない」(『顔の現象学』)。交わるふたつのまなざしは混ざり合い、境界をもたぬひとつの現象へと還元される。私と他者とを隔てていた距離が、消失する。

 開幕。赤阪陸央演じるクリトンが、まなこが固定されているかのように観客の瞳をじっと凝視しながら、客席をまわる。演じる者と、それを観る者との境目が消される。

 舞台前半。古川智恵子演じるソクラテスとクリトンとの対話がなされる。が、彼らは互いに向き合って話すことをしない。発話する彼らの身体とまなざしは殆ど常に、観客席に向けられている。私たち観客は、クリトンとして、そしてソクラテスとして呼びかけられているのだ。

 舞台後半。拍子木を打ち鳴らす古川と赤阪が、今度は互いに向かい合い、視線を交わしながらの対話(ないし対決)を開始する。しかしソクラテスであった古川は時にクリトンと成り、あるいはクリトンであった赤阪は時にソクラテスと成り、発話する。クリトンとソクラテス、自己と他者との境界は既に消失し切っているのだ。

 この場において、近さや遠さといった感覚は無効なのだ。私は彼を含んでおり、私は彼女も含んでいる。あるいは彼は彼女を含んでおり、彼女も彼を含んでいる。あるいはあなたが私を含んでおり、彼女も...。あるいは......。

 会場の外から、波の音が聞こえる。波音は、国府津海岸からやってきている。しかしそれだけではない。この音は、おそらくかつてアテナイにも在ったのだろう。波風の響き。寄せては返すが繰り返される渚のリズム。我々はそれらを、私として、ソクラテスとして、クリトンとして、同時に聴いているのだ。今、アテナイの海岸に、穏やかな波が打ち寄せている。我々はそれを聴いている。だが、何者として?

 私たちは、〈誰〉としてここに居るのか?そもそもここは、〈何処〉なのだろう?距離という隔たりを消失させた本作が導出する問いは、我々の中に含まれていた、そしてこれから含まれていくであろう様々な存在を意識するための回路を開く。開かれた対話の可能性は、そうした内なる他者への想像力が芽生える地点から始まるのだ。

阿部修一郎

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