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『ソクラテスの弁明』演出ノート

なぜソクラテスの弁明なのか?

 なぜ今の時代に、『ソクラテスの弁明』を上演するのか。その答えを、私がなんの迷いもなく答えることができるのならば、『ソクラテスの弁明』は現代に上演される必要は無かっただろう。「この作品をやらなければならない」という、何か焦りにも似た衝動から上演を行う準備を始めた。他者に説明するのために必要な言葉は、あれやこれやと色々な場所に発表してきたが、現代に上演される理由として自分が衝動的に持った感覚に言葉を与えられたのは、つい最近のことだ。
 この作品が現代に上演される理由は、彼が「人間」を愛し「人間」に愛されなかったからだ。そして、その状況的な孤独の克服は現代の我々の置かれた状況に打開のヒントを与えてくれると感じたからだ。
 彼の置かれた状況的な孤独は、「善く生きること」に対する彼の強い信念と、曲がることのない論理的思考に従った生き方によってもたらされると同時に、その両者によって乗り越えられ、それは最終的には死の恐怖すらも克服してしまった。それほどまでに強固な人間を、私は人間とは呼べないと感じたし、当時のアテナイの人々も同様に感じたのだろう。それはもはや神霊的な領域に位置する存在者であり、人間と呼ぶには個体として強すぎる。それ故に、彼は社会から追放されたのであろう。誰より人間と向き合い、人間を愛したからこそ「善く生きること」に専心した彼は、結局のところ一種の怪物か神霊に化けた。彼にとっての弁明の場は、告発者たるメレトスたちにとっては化物退治であったことだろう。
 そのような状況の中で、彼は彼の最後の愛情を人間に注ぐことになる。そのソクラテスの言は、救いでもなく、道標でもなく、また刑罰を逃れるための弁明でもなく、「善く生きること」を説くだけだった。そして、全てを語り終えた後の最後の言葉は、どこまでも人間らしい父としての温もりを持った言葉であった。
 この、死にゆくことを受け入れた彼の言葉を、私たちがどのように受容することができるのか。それが私の感じた問題(テーマ)であった。ソクラテス自身が語るように、彼は多くの偏見によって固められたイメージによって中傷されてきた。そんな彼がそのイメージを超えるためには、命を賭す必要があった。現代を生きる私たちもまた、多くの偏見によるイメージによって他者に認識されている。身分に対する「自由」が社会的身分のカテゴライズを複雑化し、「収入」「年齢」「学歴」「正規・非正規雇用」「親の収入」「子どもの就職先」「社会的影響力(SNSなど)」など、枚挙にいとまのないカテゴリーが生まれ、それらの要素が互いに影響し合う。そこに、インターネット上のコミュニティが一人歩きして生まれた、「自身が把握できない他者」からのカテゴライズも生まれ、時にはそれが自身に思わぬ形で影響を与える。その上、現実におけるコミュニケーションにはコロナ禍によるマスクというフィルターが表情を奪い、目の前の相手の表情すらも想像(イメージ)で補う。私の仕事先でも、3年一緒に働いているのに素顔を知らない同僚が何人もいる。誰もが、誰かの偏見によるイメージに晒され、ともすればそのイメージからくる中傷に苦しめられるリスクを抱えていると言えるだろう。それは、ソクラテスが置かれていた状況にも匹敵しうるだろうと思う。
 そして私は、そんな現実に疲弊している。
 今回の作品では、まずはその偏見を超えることに挑んでみようと思う。それこそが、ソクラテスが裁判の場で成そうとした試みであっただろうし、私が考える、現代人が超えるべき課題であるからだ。演劇(劇場)は、限定的な社会実験の場でもある(ある仮説に基づいて、「人間」を考えるのに、演劇以上の方法を私は知らない)。神霊的(化物)ソクラテスが、あらゆる偏見を超えて、彼の愛した「人間」に愛される「人間」となることができるかどうかの挑戦を、ぜひ劇場で見届けていただけると幸いだ。

Mr.daydreamer 上野隆樹

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