相手の気持ちがわからないけれど

put myself in one's shoes
という英語の表現は、大学受験をした者ならばどこかで目にしたことがあるかもしれない。
直訳すると「自分を誰々の靴に入れる」、意味としては「誰々の立場に立って考える」という感じか。
なんというか、比喩のわりにかなり直感的で、初めて見た瞬間に覚えてしまったような気がする。今でも何かにつけて思い出すのだ。

相手の気持ちを考えなさい、とは、この国で育つ子どもが何度となく聞かされる言葉だと思う。
とはいえ、エスパーではないので相手の気持ちなど本当にわかるはずはなく、代替案として、あなたが誰々くんだったらどう思う、なんて聞かれる。
そういえば、かの偉大な孔子も「己の欲せざる所は人に施す勿れ」と言っていて、こちらにはもっと深遠な含意があるのかもしれないが、字面だけを見れば同じような事を主張しているようだ。
しかし、これらの文言に疑問を抱いてきた人は少なくないと思うのだ。
「自分はやられても別にいいことが、相手にとっては嫌だった、という場合もあるではないか」と。

時々、友達に悩みを打ち明けられることがある。
そこには話を聴いてほしいだけのケースや、もう答えは出ていて背中を押してほしいだけのケースが相当あると思うのだが、中には真剣に意見を求めてくる場合もある。
そういう時、私は相手の立場を想像してアドバイスを考えてみるのだが、どうやら往々にして私は相手の立場を充分に理解できていないようだし、仮にそこがクリアされても私の発想が相手の価値観に全く合わない時がある。
私はアドバイザーとしては相当ひどい部類のようだ、と落ち込むのだが、最近気づいたことがある。
もしかすると、相手が悩みを自力で解決できないのは、抱えている悩みの本質をうまく捉えられていないからではないのだろうか?

傍目八目、というのとは少し違うかもしれないが、本人よりも周りの人の方がその人の人となりを深く理解していることがある。
己の欲せざる所、というやつは、本当のところ何なのか?
そんな簡単な事さえも、意外と気づけないものなのかもしれない。
最近の自粛ムードで気晴らしができなくてつらい、という人が多いが、そもそも気晴らしを必要とするほど鬱憤の溜まる仕事、勉強、人間関係がまずいのではないか、という考え方もある。素因と誘因、というやつか。
そうすると、相手の立場に立って「アドバイスを与えようとする」態度こそが傲慢なのだ。
一歩下がって、文字通り、相手自身にすらわかっていない、相手の気持ちを一緒に考えることを目標とした方が良いのかもしれない。

思いやる、親身になるというのも相当なエネルギーを要する作業で、誰彼構わずやっているとこちらが疲弊してしまいそうなのだが、寄り添うという行動の心強さを、この孤独な時期にこそ胸に刻むべきなのかもしれない。

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