歩調を落として

 近頃の私は歩調が速い。理由ははっきりしていて、歩いている時にはいつも目的地があり、そこに着かなければいけない時刻も決まっているからだ。移動は常に無意味なプロセス、時間の消耗で、できるだけ回避することが望ましいものとして私の生活には存在している。
 思えばそんなのは今に始まったことではないのだ。私の生活にはいつからか、常に短期的あるいは長期的な目標が付き纏うようになっている。始まりはいつかと遡れば、中学校に上がって定期考査なるものが私を試すようになり、三年後に高校受験が待ち構えているのを意識するようになったあたりだったと思う。その頃から私は次々に現れる目的を消化する単純な生活へと移行し、あくまで無為な移動時間を忌むべきものと見做し始めていたのだ。
 それでも中学生や高校生の頃には、友達と肩を並べることによってゆっくりと歩くこともまだできていた。大学院生にもなって誰かと一緒に歩くような時間が自然と減り、更にこのコロナ禍に追い打ちをかけられたことで私の歩調は今、何かに追い立てられているかのように速くなっている。
 これではいけないと思って市役所で住民票をとった帰り道に、敢えて遠回りをして川沿いを歩いてみることにした。役所の人に言われた通りに申請用紙に記入して、ただ欲しいものが出てくるのを待つというこの上なく無為で頭を使わない時間が心地よかったから、ふとそのようなことをしたくなったのかもしれない。
 歩調を意識して落としてみると、初めて目に見えるものがある。例えば家々の装いがそうだ。一軒家の多い地域で、小ぢんまりとした庭先や塀を一戸ずつ見ていると思い思いの装飾をした家が意外と多い。普段道を急ぐだけでは決して視界に入らない小さなこだわりが、実はいたるところに溢れていた。
 この地域に引っ越してもう長くなったが、忙しいだの疲れただのとなんやかんやの理由をつけて、堤防の上を歩いてみようと思ったことはこれまで一度もなかった。だから少し街並みを外れるとまずは匂いが変わるのだということにも今まで気づいていなかった。あらゆる種類の匂いに鈍い私は、堤防に上がりながら香ってきたそれをまず人間の体臭のようだと思ったが、注意深く嗅ぎ分けてみるとそれは川のある側の斜面いっぱいに咲いた菜の花の匂いなのだった。
 一面の黄色に彩られた川沿いの道は尽きるところが見極められない。一体どこまで続くのか、それは下流に向かっているのだから海へ流れ出る河口まで行けば少なくとも途切れるはずだが、そこまでは途方もない距離があるはずで、私が歩いているというスケールでいえば無限といってもいいはずだった。私を追い立てる用事というやつも今日は何も無く、その気になれば日が暮れるまで歩いていたってよかった。
 しかしそう意気込んでいられたのも最初の一時間ほどに過ぎず、運動不足が祟って疲れ出したのもあり、同じ眺めの道にもすぐに飽きてしまった。ここからは電車で帰ろう、最寄りの駅はどこだろうかとスマホを取り出したところで、ああこれはもう駄目なのだと思った。もはや学校生活に飼い慣らされた私は、ほんの一時間程度の無為しか楽しむことができなくなっている。社会に出てもきっと、馬車馬のように盲目的に働かなくては、きっと腰を落ち着けることもできないのだろう。
 市街に戻ろうと足の向きを変えると、すぐそこには高速道路のインターチェンジがあって、傍には今まで見てきた市役所や図書館よりも更に大きいような物流拠点がいくつも並び、隣には排気塔から煙を出しているこれまた巨大なごみ処理場もあった。思えば、私もしばしばお世話になっているだろうこれらの建物の中がどのような構造になっているのか、当然知らないし想像もできない。そこに毎日出勤してあれやこれやを動かしている人もいるのだ、そして私がそこに入ることは一生ないのだろうと思うと何だか不思議な気がした。ほんの隣り合った近場からの眺めでさえ知らないということが往々にしてある。このような些細な発見もやはり、時には歩調を落としてみてこそ得られるものなのかもしれない。
 そういえば、途中ですれ違った中年女性の二人組が、おそらくは摘んだ菜の花を抱えて、私はいつも根まで食べているなどと話をしていた。私は多分、菜の花を食べたこともなかった。

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