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何かの変化が始まった事態に。

前回、「徹底的に自分の感情から来る行動を放棄した」と書きましたが、生半可な覚悟で出来るものではありません。

自分のプライドなんて、ちっぽけなものだからです。

実は私には、それとは別な観点がありました。

それが、「人間とは?」という観点です。

自分も含めた、ちっぽけな、「人間とは?」という観点です。

人間は、常に他者との関係性を通して人生を歩みます。

そこには一人の例外もありません。

そして社会を作り、文化を育み、個人から家族、家族から集落、集落から都市、都市から国家、国家から世界へと、時代の推移とともにその活動領域を広げてゆきました。

人間は常に、組織の構成員であり、社会の構成員であり、国家の構成員でもあるのです。

そこを無視して、個人の存続は難しくなります。

よって、大嫌いなパワハラ上司も、その例外ではないのです。

私は、パワハラ上司に対しても、「組織の構成員としての立場」があり、そこを守る事に対する、あの世代特有の「過剰な攻防」を、理解してもいたのです。

これらは、「自己と他者」と呼ばれる、「人間の宿命」とも言える、「時代の背景」と共にある、「社会の構図」なのです。

そして私は、これらの「社会の構図」の中に、スピリチュアルな、目に見えない「存在の意図」を感じ取ったのです。

これらの認識のもと、私は、パワハラ上司に対しても、「組織の歯車の一つ」として、「諦観(ていかん)」したのです。


実はこの「諦観」という言葉は、京都に誘われ、嵐山天竜寺の「龍門会」に通うようになって知る事に成った考え方の一つですが、何とも「不思議なご縁」を感じずには居られません。

この言葉はまさに、私にとって、「奇跡の始まりの切っ掛け」を言い表しており、それが仏教の伝統の中に存在することに対して、驚きを隠せないでいます。

私の体験の中でこれらは、哲学などの「学問上の事」ではなく、まさに「生きた現実の事態」を言い表しており、その含意に「諦める」の言葉が含まれることに衝撃を受けたのです。

まさに私は、全てを悟り、ある意味で、「人間と呼ばれる関係性」に対して、諦めたのです。

そしてそれは、始まったのです。


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